「リトル・ダンサー」2000年イギリス。NHKBS録画。英国アカデミー賞作品賞、主演男優賞。ずいぶん前に録画してあった映画を観る。良い映画だ。
「男はつらいよ」1986年12月 第37作 渥美清 倍賞千恵子 志穂美悦子 長渕剛 BSテレ東録画。これも前に録画してあったもの。早くも映画館での封切から37年も歳月が過ぎたことになる。
「リトル・ダンサー」2000年イギリス。NHKBS録画。英国アカデミー賞作品賞、主演男優賞。ずいぶん前に録画してあった映画を観る。良い映画だ。
「男はつらいよ」1986年12月 第37作 渥美清 倍賞千恵子 志穂美悦子 長渕剛 BSテレ東録画。これも前に録画してあったもの。早くも映画館での封切から37年も歳月が過ぎたことになる。
石垣島の友人UYさんからメールが送られてきた。添付されてあったのは、尊敬するTC先生の新聞投稿である。
その趣旨は、杖をつく高齢者になると、坂本九「上を向いて歩こう」ではなく、下を見て注意深く歩こう。転倒防止こそ寝たきりを防ぐうえで大切だ。宮沢賢治「雨にも負けず、風に負けず、雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な体を」の精神で、できるだけ健康寿命を保ちたい。
そして、なによりも高齢者は、石垣市立図書館を大いに活用して学び、今日一日を大事に生きていこう!先生よりぼくは20歳弱年少だが、ハッパをかけられた気分となり、日々を大事に有意義に過ごしていこうと、粛然たる気持ちになった。遠く八重山に向かって感謝の合掌をした次第である。
宮沢賢治にかかわるエピソード思い出した。政党機関紙の記事である。
ある年の参院選挙に立候補した神奈川選挙区千葉景子さんの選対事務所へ、近くの横浜馬車道にある寿司屋の女将さんがお寿司の差し入れをよくしてくれたそうな。その女将さん、写真で見るととてもきれいな方で、実は晩年の荒畑寒村の世話役を瀬戸内寂聴から依頼されてこころよく引き受けたとのこと。
そして、寒村宅を訪問する初日、褒めてもらおうと「共産党宣言」を持参したところ、寒村「そんなもん読むより、宮沢賢治をよんでごらん」と諭された。ウン、いい話だ。
当ブログに友人から感想が寄せられた。
「哲日記」拝見。「沖縄―八重山航路 転落事故の顛末」。臨場感があってよかった。
「何か足を突っつく感じ、あるいは足を伸ばせば海底に着く感じ、いろいろな感情が頭をよぎった。疲労が積み重なってきた。何かつかまる物はないか、浮遊物はないか、そのようなことも疲労が増すにつれて感じた。深夜の転落事故であるが、夜の海は8月初旬ということもあってか寒さは感じなかった。陽があがって夏の強烈な暑さも感じない。空腹感、のどの渇きも感じない。鈍感なのか、死の恐怖、サメに襲われる身震いする怖さも感じない。漆黒の闇の中でも、幽霊の幻想もなかった。冷静なのか、定かではない。」
やはり本人じゃないと書けないリアリティがあって、息をつめて読みました。
ぼくからの返信。
ぼくの拙いブログを読んでもらって、そのうえ感想までいただき初のファンレターと勝手に受け止め感激しつつ、恐縮しております。ブログはいちど公開しても、誤字脱字等すぐ書き直しできるところ凄いですね。
最近読んだ「君のいた時間 大人の流儀」伊集院静著の冒頭に「この文章は、今回の本の前書きだが、これでもう十回以上書き直している」と記している。
へぇーと思いました。このベストセラー作家にしてそうなのか。ぼくなんか、少なくとも50回以上、読み直し書き直しする必要あるのでは!と思いました(笑)
いちおう謙遜を装いつつ、大作家と自らを比べるなんて・・・・図々しいにも程がある。
沖縄に暮らす黒島の同級生(女生徒)からは「行動記からお人柄が感じられます。ステキです。うれしいです」
東京の同級生(女生徒)からは「てっちゃんの日記読んだよ。面白いね。禁酒がんばってね」
何だか青春時代に戻った感じで、超気持いい! 男子からはウンともスントモありませんです!
「お前さんの24時間漂流記、聞かせくれよ」「2,3日海上を漂っていたんだって?」
55年前のぼくの不始末な事故について、興味津々、いまに至るも問われることがある。ぼくも「労働基準法にならって8時間だ」と冗談っぽく返したりするが、その九死に一生を得た体験について、当事者としてふり返ってみたい。
【海に転落 必死に泳ぐ】
1967年8月4日未明、ぼくは沖縄本島と石垣島をむすぶ貨客船・那覇丸から転落した。当時15歳、石垣二中3年生のぼくは全琉中学校軟式庭球大会で団体戦二連覇、チームメイトとともに八重山へ帰る途中で事故に遭ったのである。前日の3日夕方、泊港を出港した那覇丸は4日朝、石垣港着の予定で船出。夜の航行であるが、8月の海はとても穏やかだった。ぼくは船底の2等客室は蒸し暑いので、同僚のKE君と甲板で寝ていた。涼みがてら甲板には、およそ50人が寝ていた。
そして午前3時頃、宮古島沖合の東シナ海で甲板から海に転落。海中から浮上して気がついたとき、去っていく那覇丸の大きな船尾がみえた。よくスクリューに巻き込まれなかったなと言われるが、当時はただ呆然とさり行く船を見つめたままだった。闇の中で、大海原に浮かぶぼくの目に一条の光が定期的に映る。近くで漁船が夜間操業している灯りではと思った(後に池間島灯台と判明)。その光の方向をめざして、懸命にではなくゆっくりと泳いだ。
力むことなく、泳ぎ続けること数時間。夜が明け、目標としていた灯りも確認することができなくなり、少しずつ波も高くなってきた。波間に一隻の漁船が遠く離れたところで行き過ぎる。目標もない大海原で平泳ぎや立ち泳ぎをしたり、大きく息を吸い込んで仰向けに浮かんだり、無意識に行動をしていた気がする。何か足を突っつく感じ、あるいは足を伸ばせば海底に着く感じ、いろいろな感情が頭をよぎった。
疲労が積み重なってきた。何かつかまる物はないか、浮遊物はないか、そのようなことも疲労が増すにつれて感じた。深夜の転落事故であるが、夜の海は8月初旬ということもあってか寒さは感じなかった。陽があがって夏の強烈な暑さも感じない。空腹感、のどの渇きも感じない。鈍感なのか、死の恐怖、サメに襲われる身震いする怖さも感じない。漆黒の闇の中でも、幽霊の幻想もなかった。冷静なのか、定かではない。
【救助の瞬間 気つけのビンタ】
再び、漁船が一隻通り過ぎた。先ほどより近くに見える。はいていた半ズボンを脱いで振った。漁船に合図を送った。通り過ぎたと思った漁船は、Uターンしてきた。のちに分かったのは池間島の雄山丸である。ぼくを発見した雄山丸は、慎重に近づいてきた。そして、ぼくの周りを2周旋回した。まさか、大海原で人間がいるなんて思いもしなかったであろう。午前11時、ぼくは船から出された竹竿をしっかり握り引きあげられた。すると突然、往復ビンタを張られた。人間、安心したときが一番危ない。海の男の気つけのひとつである。
ぼくは、黒砂糖を溶いた白湯を飲み、おじさん達に借りたシャツとデカパンを着て、うるさいエンジン音をものともせず船室で爆睡した。この間、雄山丸は「少年救助」の打電をし、ぼくが大丈夫そうなので漁場に向かい、希にみる大漁となった。ぼくを乗せ、大漁旗をかかげた雄山丸は、池間島に着いた。そして、警察の警備艇で宮古島へ移送され、I嶺医師(のちの初代宮古島市長)の診察と手当てを受けた。翌日、宮古空港からYS11で石垣島へ帰った。初めて飛行機に乗るというおまけ付きで、8時間におよぶぼくの九死に一生を得る体験は終わった。
【地元では大騒動 救助に安堵】
一方地元では、下船時にぼくが行方不明であることがわかり大騒動となった。警察は、付近航行中の全船舶に緊急無線による捜索手配、警備艇の出動。竹富町役場勤務の父も仕事そっちのけで奔走し、救助に一縷の望みを託す。黒島から祖父と兄がサバニをチャーターして石垣に向かった。叔母のひとりは、ぼくが転落する夢を見たという。那覇からは、母方の祖父が急を聞いてかけつけた。テニス仲間はじめ、多くの皆さんに心配と迷惑をかけた。
僕にとって不始末な事故であるが、新聞でも大きく取り上げられ、へたくそな自筆署名の手記まで掲載され、沖縄県内各地から手紙やプレゼントが寄せられる反響に驚いた。夏休み中の事故からあけて2学期の始業式をむかえる。中学校に登校すると、女生徒から「奇跡の人」「エイトマン」「好きー」などど黄色い声をあびる人生で唯一の経験もした。
【命の恩人へ感謝】
後年、ぼくの友人が宮古島へ社員旅行で行ったところ、バスガイドが池間島の灯台を指さし「この灯台の明かりを目ざし、少年は深夜の海を泳ぎ続けたのです」と紹介したとのこと。東京で社会人生活をおくっていたある日、池間島文化講演会で話をする機会をいただいた。ぼくを奇跡的にも大海原で見つけ、救助してくれた雄山丸が所属する池間島。ぼくの拙い話に島人は熱心に耳を傾けてくださり、笑いあり涙あり指笛まで飛び出すまでに至ったとき、命の恩人の皆さまへ感謝の念が届いたことに、ようやく肩の荷がおりた思いがした。
【黒島とすべての皆さまに感謝】
さほど体格もでかくない私が、8時間も踏ん張ることができたのはなぜか。それは黒島の海で、休暇のたびごとに泳いだことに尽きる。家畜のヤギにあたえる草刈のあと、伊古の桟橋から海に飛び込んで汗をながし、夕陽を眺めることが日常であった。信心深い祖母は「竜宮の神さまが助けてくれた」とぼくに言い聞かせた。作家の澤地久枝さんは「黒島の海は、人間の目がみた最も美しい海と言われるカリブ海よりもはるかに澄んで絶妙の色を呈している。神の領域に分け入ったような海である」と著書に記している。その海に助けられたかもしれない。
ぼくは、古希を超える年まで生きてこられたことを、黒島の海と、ご心配をいただいたすべての方へ感謝しつつ日々をすごしている。それでも事故から55年、トラウマが潜在的にあるのか、自分がはたして現世にいるのか、死後の世界にいるのではないか、と妄想にさいなまれることもなきにしもあらずだ。しかし、次の言葉に出会ってふっきれた。「語りえぬものについては沈黙しなければならない」(ヴィトゲンシュタイン)。まさに死後の世界こそ「語りえぬもの」と思うからである。
テレビ 「立花隆思索ドキュメント がん 生と死の謎に挑む」NHK2009年制作を観る。立花は2021年4月に逝去。その後、NHKは「追悼 立花隆さん」として数本の番組を放送したので、それを録画しておいたもの。
自称勉強屋・立花隆は、膀胱がんにかかったのをきっかけに世界中を飛び回ってがんの取材に取り組む。そしてその結論は、①自分が生きているまでの間、人類ががんを克服することはないだろう。がんはしぶとく、生命そのものがはらんでいる「一つの避けられない運命」という側面をもっている。②すべてのがん患者は、がんという病気と人生の残り時間について折り合いをつけなければならない。いたずらにがんばって人生のQOLをさげることではない。③人間、死ぬまで生きる力を持っている。死ぬまでのちゃんと生きることこそ、がんを克服するということではないか。
立花隆が他界して2年。ぼくの周りにもがんに罹患したという知人友人がいるので、とても有意義な番組であった。
午後出勤。仕事も「ちゃんと生きる」ことの確かな営みであると思う。
年賀状の返信届く。横浜の朗らか美人のUM姉さん。「年賀状ありがとう。哲ちゃんが古希なんて???千代先生がびっくりしているでしょう。すぐ折れる断酒なんてナンセンス。酒は百薬の長というから上手につき合えばいいと思うよ。まだ就職できるなんて幸せですね。健康第一でお励みなさいね」 千代先生とはぼくの亡母のこと。黒島校での教え子なんですね。 断酒ナンセンス! いいですね。慈母のようなUMさんに言われると「節酒」くらいにしとくかなぁ(笑)
那覇のMIさん。「昨秋ガンの大手術した。11月にはコロナ感染」 大変でしたね。最近はガンのこと、カミングアウトなんて気張ることなく普通に公表するんだ。くれぐれもお大事にしてください。
黒島の同級生のMAくん。「毎年の如く早々の年賀状ありがとう」とそっけない添え書き。ぼくより2歳年長の那覇のNM姉さんからは「11月石垣島での生年祝いに参加し、久しぶりに黒島にも足を延ばしてMA君にも会えました。彼も千葉と黒島の往復でたいへんなようです」との添え書き。千葉=神奈川の誤りと思うが、黒島の母親の介護と牛飼いのための単身赴任なので、本当に大変なことだ。頭がさがります。
警視庁SP・OBのSさん、「裁判所の強制執行立会人をやってます。やりがいのある仕事です」との添え書き。皆それぞれの立場でがんばってますね。
大分のKJ先輩。「賀状ありがとう。ブログを読ませていただきました。ブログもいいね。遠くなっていた哲ちゃんが近くにいるように感じられました。今年もよろしく」 年賀状終いをしているにもかかわらず、こちらが一方的に年賀状を送っていることにメールでわざわざ返信。感謝です。
昨夜、石垣島のTC先生より電話。年賀状もらった人へ返信代わりに電話しているとのこと。泡盛を晩酌に1~2合召し上がる酒豪で、平成天皇より1歳年少にかかわらず元気そのものだ。
TC先生「黒島出身のOMさん、ぼくの碁敵だが最近連絡がとれなくなった。どうも施設に入所されて付き合いもしなくなったようだ」とのこと。OMさんは、若いころ日本一周の自転車の旅を成し遂げた屈強な先輩だ。東京板橋から東北、北海道、日本海側をへて九州、沖縄から八重山、黒島まで足を延ばしたというから脅く。帰路は九州、四国、東海、東京とあっぱれな旅である。関東でのわがふるさと会へも参加していただいたが、老人ホーム?への入所とは、寄る年波には勝てないのか。
TC先生「キミの同級生のUYさん、最近、彼の講演を2度聴いた。『島を出る』宮良正吉さんのハンセン病に関する本のこと、Y書店主催の経営セミナー?に関する講演、彼は文才のみならず経営手腕もあるんだねー」と。 それに引き換えお前さんは、と説教がはじまるところだがなかった。酔いが足りなかったかもしれない。
1月9日(月)晴
朝4時、目が覚めたので読書。「ふたつの嘘」諸永裕司著 講談社。図書館借り。沖縄復帰前後の密約をテーマに、その後の裁判経過をたどりつつ、ふたりの女性(西山太吉妻・啓子さん。小町谷育子弁護士)の辛抱と魅力と活躍を描く。ふたつの嘘とは、1970年代の過去の嘘と2000年代の現在の嘘をさす。最近も、沖縄核持ち込みの密約が表面化したが、沖縄返還の闇はまだまだ深い。
成人の日。午後から出勤。出かけにガールフレンドから電話があったので、すこし遅刻。
テレビ NHKETV特集「沖縄の”眼”になった男~写真家・平良孝七とその時代~」を観た。本土復帰の前後を記録した写真家・平良孝七の遺したモノクロ写真を題材に沖縄の昔と今を考える番組。たびたび画面にでてくる少女の写真(多良間島)がよかった。彼女の「まなざし」に撃たれる思い。
突然わがふるさと黒島が画面に現われた時には、予期しなかったのでびっくりした。復帰の2年後に黒島に渡った平良がうつした写真。島ちゃび(離島苦)を物語る風景・人物のモノクロ写真の数々。そして現在の黒島がカラーで映し出され、ぼくの又従兄にあたるMJ元郵便局長(83歳)が登場して再びびっくり。
平良がカメラに収めた1974年のモノクロ黒島を懐かしく思う。そして、現在の豊かになったカラー黒島を嬉しく思う。新たな戦前の時代となって戦火にまみれることのないように祈るばかりだ。
「男はつらいよ・寅次郎ハイビスカスの花特別編」第49作 1991年(平成9)11月 テレ東録画。渥美清、倍賞千恵子、マドンナ・浅丘るり子、ロケ地沖縄。 沖縄にて病気で倒れたリリーを見舞う寅さん、初の飛行機の旅はドタバタ、入院先の病院でのドタバタ、静養先の本部でのドタバタ、沖縄に置いてきぼりをくらった寅さん東京に戻るドタバタ。
渥美清没後1年後に作成された本作は、第25作(1980年)のリマスター版。去年録画してあった本作を観始めたとき、あれ、いちど観たんじゃない?と思ったがさにあらずリマスター版であった次第。お正月にふさわしい肩の凝らない名作だ。
「オーシャンズ12」2004年アメリカ、NHKBS録画。ジョージ・クルーニー、ブラッド・ピット。マット・デイモン、ジュリア・ロバーツ他。泥棒の腕前を競う物語。ストーリーは複雑で、いまいちだね。ジュリア・ロバーツはよかった。
「男はつらいよ・柴又より愛をこめて」第36作 1985年12月 テレ東録画。渥美清、倍賞千恵子、マドンナ・栗原小巻、ゲスト・川谷拓三。ロケ地 会津、式根島、下田、浜名湖。式根島の学校の先生(栗原小巻)に恋をする寅さん。黒島小中学校にあこがれの先生がいらしたことを思い出しつつ、楽しく観た。じゃんじゃん!
「突破口」1973年 米国。NHKbs録画 NHKも予算があるのかないのか、2~3年ごとに同じ映画を放送するようだ。これも、かつて観た。銀行強盗のお話。しがないオッサンがひなびた銀行に押し入り、思いがけず大金をまんまとせしめる。が、しかし、この大金はマフィアがマネーロンダリングのため一時保管した訳ありカネ。オッサン、マフィアに追われる身となり云々。あとはネタバレとなるので割愛します。
早朝4時半、左肘の痛みで目を覚ます。2日程前からうずいていたが、いよいよ本格的な痛みとなった。痛風の症状だ。昨年10月、断酒が頓挫して以降の酒量がかさばったせいに違いない。その前は左膝の痛みであった。初期のころは足の親指付け根あたりが痛かった。さぁどうする? 症状が上に移行して、ついには腎臓あたりに尿酸のカスが溜まって痛風の症状を発するようになると、怖いことになるかもしれない。飲酒を反省し、禁酒・断酒の徹底をはかる他ないのである。
1月5日㈭晴
新年初出勤だ。向こう一年、真摯に取り組んでいきたいね。
ネット銀行にて、日本最南端の月刊誌『やいま』の年間購読料(6,500円)振り込む。この雑誌は、八重山の文藝春秋とも言われ、総合誌の魅力たっぷりである。ときにはフランス、イタリアからも寄稿文がとどき、芥川賞候補作家の掌編小説が連載される。観光情報はもとより、歴史・文化・政治・経済・人物等にくわえ街ネタも豊富、グラビア、表紙装丁もちろん圧巻のつくりだ。