エッセイ,黒島

8月4日は、ぼくの九死に一生を得た「記念日」 つい忘れていましたが、宮古池間島ご出身の元校長先生からのメールで思い出しました。ここに過去の投稿記事を再掲します。

沖縄ー八重山航路 転落事故の顛末

「お前さんの24時間漂流記、聞かせくれよ」「2,3日海上を漂っていたんだって?」

55年前のぼくの不始末な事故について、興味津々、いまに至るも問われることがある。ぼくも「労働基準法にならって8時間だ」と冗談っぽく返したりするが、その九死に一生を得た体験について、当事者としてふり返ってみたい。 

【海に転落 必死に泳ぐ】

1967年8月4日未明、ぼくは沖縄本島と石垣島をむすぶ貨客船・那覇丸から転落した。当時15歳、石垣二中3年生のぼくは全琉中学校軟式庭球大会で団体戦二連覇、チームメイトとともに八重山へ帰る途中で事故に遭ったのである。前日の3日夕方、泊港を出港した那覇丸は4日朝、石垣港着の予定で船出。夜の航行であるが、8月の海はとても穏やかだった。ぼくは船底の2等客室は蒸し暑いので、同僚のKE君と甲板で寝ていた。涼みがてら甲板には、およそ50人が寝ていた。

そして午前3時頃、宮古島沖合の東シナ海で甲板から海に転落。海中から浮上して気がついたとき、去っていく那覇丸の大きな船尾がみえた。よくスクリューに巻き込まれなかったなと言われるが、当時はただ呆然とさり行く船を見つめたままだった。闇の中で、大海原に浮かぶぼくの目に一条の光が定期的に映る。近くで漁船が夜間操業している灯りではと思った(後に池間島灯台と判明)。その光の方向をめざして、懸命にではなくゆっくりと泳いだ。

力むことなく、泳ぎ続けること数時間。夜が明け、目標としていた灯りも確認することができなくなり、少しずつ波も高くなってきた。波間に一隻の漁船が遠く離れたところで行き過ぎる。目標もない大海原で平泳ぎや立ち泳ぎをしたり、大きく息を吸い込んで仰向けに浮かんだり、無意識に行動をしていた気がする。何か足を突っつく感じ、あるいは足を伸ばせば海底に着く感じ、いろいろな感情が頭をよぎった。

疲労が積み重なってきた。何かつかまる物はないか、浮遊物はないか、そのようなことも疲労が増すにつれて感じた。深夜の転落事故であるが、夜の海は8月初旬ということもあってか寒さは感じなかった。陽があがって夏の強烈な暑さも感じない。空腹感、のどの渇きも感じない。鈍感なのか、死の恐怖、サメに襲われる身震いする怖さも感じない。漆黒の闇の中でも、幽霊の幻想もなかった。冷静なのか、定かではない。

【救助の瞬間 気つけのビンタ】

再び、漁船が一隻通り過ぎた。先ほどより近くに見える。はいていた半ズボンを脱いで振った。漁船に合図を送った。通り過ぎたと思った漁船は、Uターンしてきた。のちに分かったのは池間島の雄山丸である。ぼくを発見した雄山丸は、慎重に近づいてきた。そして、ぼくの周りを2周旋回した。まさか、大海原で人間がいるなんて思いもしなかったであろう。午前11時、ぼくは船から出された竹竿をしっかり握り引きあげられた。すると突然、往復ビンタを張られた。人間、安心したときが一番危ない。海の男の気つけのひとつである。

ぼくは、黒砂糖を溶いた白湯を飲み、おじさん達に借りたシャツとデカパンを着て、うるさいエンジン音をものともせず船室で爆睡した。この間、雄山丸は「少年救助」の打電をし、ぼくが大丈夫そうなので漁場に向かい、希にみる大漁となった。ぼくを乗せ、大漁旗をかかげた雄山丸は、池間島に着いた。そして、警察の警備艇で宮古島へ移送され、I嶺医師(のちの初代宮古島市長)の診察と手当てを受けた。翌日、宮古空港からYS11で石垣島へ帰った。初めて飛行機に乗るというおまけ付きで、8時間におよぶぼくの九死に一生を得る体験は終わった。

【地元では大騒動 救助に安堵】

一方地元では、下船時にぼくが行方不明であることがわかり大騒動となった。警察は、付近航行中の全船舶に緊急無線による捜索手配、警備艇の出動。竹富町役場勤務の父も仕事そっちのけで奔走し、救助に一縷の望みを託す。黒島から祖父と兄がサバニをチャーターして石垣に向かった。叔母のひとりは、ぼくが転落する夢を見たという。那覇からは、母方の祖父が急を聞いてかけつけた。テニス仲間はじめ、多くの皆さんに心配と迷惑をかけた。

僕にとって不始末な事故であるが、新聞でも大きく取り上げられ、へたくそな自筆署名の手記まで掲載され、沖縄県内各地から手紙やプレゼントが寄せられる反響に驚いた。夏休み中の事故からあけて2学期の始業式をむかえる。中学校に登校すると、女生徒から「奇跡の人」「エイトマン」「好きー」などど黄色い声をあびる人生で唯一の経験もした。

【命の恩人へ感謝】

後年、ぼくの友人が宮古島へ社員旅行で行ったところ、バスガイドが池間島の灯台を指さし「この灯台の明かりを目ざし、少年は深夜の海を泳ぎ続けたのです」と紹介したとのこと。東京で社会人生活をおくっていたある日、池間島文化講演会で話をする機会をいただいた。ぼくを奇跡的にも大海原で見つけ、救助してくれた雄山丸が所属する池間島。ぼくの拙い話に島人は熱心に耳を傾けてくださり、笑いあり涙あり指笛まで飛び出すまでに至ったとき、命の恩人の皆さまへ感謝の念が届いたことに、ようやく肩の荷がおりた思いがした。

【黒島とすべての皆さまに感謝】

さほど体格もでかくない私が、8時間も踏ん張ることができたのはなぜか。それは黒島の海で、休暇のたびごとに泳いだことに尽きる。家畜のヤギにあたえる草刈のあと、伊古の桟橋から海に飛び込んで汗をながし、夕陽を眺めることが日常であった。信心深い祖母は「竜宮の神さまが助けてくれた」とぼくに言い聞かせた。作家の澤地久枝さんは「黒島の海は、人間の目がみた最も美しい海と言われるカリブ海よりもはるかに澄んで絶妙の色を呈している。神の領域に分け入ったような海である」と著書に記している。その海に助けられたかもしれない。

ぼくは、古希を超える年まで生きてこられたことを、黒島の海と、ご心配をいただいたすべての方へ感謝しつつ日々をすごしている。それでも事故から55年、トラウマが潜在的にあるのか、自分がはたして現世にいるのか、死後の世界にいるのではないか、と妄想にさいなまれることもなきにしもあらずだ。しかし、次の言葉に出会ってふっきれた。「語りえぬものについては沈黙しなければならない」(ヴィトゲンシュタイン)。まさに死後の世界こそ「語りえぬもの」と思うからである。

2023年6月12日エッセイ,哲日記,,黒島

東京の奥座敷に暮らす身には、都心へ出かけるのも「ちいさな旅」といえなくもない。

◆6月8日(木)晴雨

国立新美術館へ。「ルーヴル美術館展 愛を描く」を鑑賞。宗教画の数々。ピカソのような抽象画でなく美しい絵は、素人のぼくにも楽しめた。入場料2,100円。こちらの建物は黒川紀章の設計、外観もすばらしい。

夕方、ホテルニューオータニで開かれた元衆議院議長「故横路孝弘さんを偲ぶ会」へ、組合中央本部の皆さんと参加させていただいた。むかし懐かしい秘書の方々のお顔も。長年のパートナー由美子夫人のお礼のあいさつが良かった。東大の同級生どうし、10代のころからの付き合いが亡くなるまで60年間、いつも優しかった、とのこと。合掌

その後、黒島病に罹った方が営む溜池の「うさぎ家」にて夕食。ことしも黒島牛まつりに出かけたそうな。祖父譲りの江戸っ子の主人が腕をふるう料理の数々、秋田美人の妻女とその姉様がお客担当、ほんとに美味しかった。池波正太郎のエッセイに出てくる名店そのものと言ってよいだろう。年内にまた行きたいな。

泊まりは、赤坂のカプセルホテル。インバウンドがふえたせいか、カプセルでも5,500円と高め。空調がうるさかったが、うさぎ家でいただいた銘酒請福のおかげで熟睡できた。

◆6月9日(金)雨曇

朝食は、ホテルで支給された赤坂見附駅まえのファミレスで、久しぶりのトーストと目玉焼き朝定食。最近の店は、新聞を置いてないようだ。 その後、地下鉄銀座線で上野へ。

東京都美術館 フランスの画家マティス(1954年没)の日本では20年ぶりの「マティス展」を観た。入場料2,200円のところ1,500円(65歳以上割引) 高名な画家であるが、ぼくなんか絵心のないものには今一つわからない。が、平日にもかかわらず多くの人々が熱心に鑑賞していた。

となりの会場では大翔会(一般、プロ問わず多くの画家が出展)の展示。無料なのでそこへ、みごとな作品をいくつか鑑賞できた。どうもぼくの好みは写実主義?、しっかり、はっきり、くっきりした絵が好みのようかも。でも、時間が経つにつれて、脳裏にうかぶのはマティスの絵画の数々。なにか良いものがあるんでしょうね。

二日にわたって美術館めぐり、フランスに暮らす畏友・与座英信画伯のことを思い出す。四半世紀前に横浜で開催された彼の個展へ、同窓会をかねて皆で出かけたことがあった。そのとき、付き合いで彼の力作を購入した。が、その絵も手元にはない。わかれた妻が売り払ったかもしれない。今では数十倍に値がついているんじゃないだろうか。絵心のなさを露呈したカネ勘定とは情けない。

上野から池袋へ出て、駅ビル西武側の三省堂書店へ。新刊を中心にながめる。東武側のレストランでおそい昼食。その後、新しくできた東京メトロ・副都心新宿線にて渋谷経由田町へ。恒例の勉強会、きょうの講師は検察出身のリベラル弁護士。目から鱗のエピソードに感銘をうけた。

およそ90分かけて電車で帰宅。さすがに疲れたので入浴して就寝。ひさしぶりの禁酒。

エッセイ,,黒島

(むかし所属する労働組合の関係でオーストラリアへ視察旅行の機会があり、以下はその旅行記)

2012年11月16日衆議院が解散となって数日後、連合東京S事務局長から電話をいただいた。用件は、「衆議院選挙のため東京を離れられなくなった。代わってオーストラリアへ行ってもらえないか」というものである。

ぼくも多摩地域の一部で選挙に取り組む立場にあるのだが、連合東京事務局長の選挙におよぼす影響がぼくのそれよりもはるかに大きいことを理解し、「業務命令であれば仕方がない(笑)」と、引き受けた次第である。

12月5日、成田空港を離陸した15名はエコノミークラス(ビジネスクラスと誤解している向きがあるので敢えて記す)にて、長いフライトののちシドニーへと到着した。ぼくにとって初の南半球への旅であり、以下、見聞したことを感じたままに述べさせていただくとしよう。

ある考古学者のコラムで「オーストラリアの歴史書は、何万年も前からアポリジが住んでいたのにその記述はたかだか数ページ、あとは200年かそこらの白人のことを記した本ばかりで・・云々」(日経夕刊2012.12.27)という趣旨の記事を読んだ。それはその通りだろうが、ぼくにとってのオーストラリアは、その200年さえもまともに知らない、見聞きするものすべてが目からウロコのものばかりといっても過言でなかった。

その1つが、オーストラリアは宗主国イギリスが囚人を送り込んでできた国である、というガイドの説明であった。「今の国民は囚人の子孫?」とつい愚問を発したところ、「その通り。ただし1972年に白豪主義が撤廃されてからは、多民族の移民が増え、また自然増(出生率)も大幅に増えているので、それらが2200万人の人口構成の大分を占めている。囚人云々は過去のこと」とのこと。

その2つが、政権と働く者との関係だ。オーストラリアでは保守連合から労働党へ政権交代して6年目となる。労働党政権のもとで制定された「フェアワーク法」によって、労働者の保護が著しく強化されたという。

ひるがえってわが国でも、民主党政権が誕生しての3年間で「労働法制に関するマニフェストはすべて実現されている」(連合会長)との評価もあるほどだが、今般の総選挙で安倍政権へと替わり、労働組合としては今後の行く末が案じられるところだ。

 視察のバスのなかで、男性ガイドがオーストラリアにおける夫婦の力関係をおもしろく披露してくれた。「こちらの女性は強い。夫が会社で残業を命じられると、奥さんが社長に電話して早く帰すように要求。その結果、定時に夫は帰宅することになるが、気の毒なことに帰宅後、掃除・洗濯・炊事まで夫がこなす。これがこの国では普通のことだ」ということらしい。労働者の権利保護に加えて、女性の権利意識も非常に高いものがあるようだ。

 また、オーストラリアは、先進国中ではめずらしく投票を棄権すると罰金=20豪ドルを科せられるという、投票義務国ということも知らなかったことのひとつだ。

 3つ目は、オーストラリアでは米を100万トン生産(わが国は500万トン)し、その米から日本酒を製造していることにも感心させられた。酒造所で試飲にあずかったが、その味といい、「豪酒」というネーミングといい、とてもウマイと思った。酒造所周辺は自然豊かなところで、その正門を起点に数百キロ?におよぶ遊歩道や、その名も「ベルバード」と呼ぶ、可愛らしい鳥のさえずりがたえまなく聴こえ、とても心地よかったのは、試飲のお酒のせいばかりではなかったはずだ。

 オーストラリア最後の晩餐は、シドニーの日本食堂「だるま」であった。お互い旅の印象を語り合いながらの楽しい夕べとなった。目を引いたのは、店の周りいっぱいに吊るされたオリオンビールの飾り提灯である。ぼくの出身地・沖縄の名産「オリオンビール」が、遠く離れたシドニーの地で何故に飾られているのか、ウェイトレスに訊ねたが、料理運びに忙しいのか、回答を聞きそびれたのが今となっては残念だ。

400万人の人口を擁する大都市・シドニー、30万人の首都・キャンベル、この両都市を視察させて頂いたが、資源豊かな国・オーストラリアが、今後いっそう飛躍的な発展を遂げるのではないだろうかと思った。(了)

追記:シドニーからバスにてキャンベルに向かった。びっくりしたのは、広大な牧場だ。バスが2時間走っても両側の牧場の柵がとぎれなかった。地平線をのぞむような広い土地で、豪州牛が大量生産されると、わが黒島の肉牛生産大丈夫か、と心配が頭をよぎったことを思い出した。

エッセイ,メール,哲日記,黒島

15年前、石垣島のひなびたゴルフ場で友人の黒島A三くんとプレーをしていたとき、兄のK生から携帯に電話があった。「従弟のSHくんが亡くなった」という。びっくりしてゴルフを切り上げ、あれこれ連絡をとりあったところ、従妹のOA嬢から「中学校陸上競技大会の全国大会へ出場している、娘ふたりを告別式へ間に合うようにお手伝い願います」とのこと。「お安いご用で」と思ったかどうか定かでないが、休暇をきりあげ急いで上京して対応した。後日、そのあらましを日本最南端の月刊誌『やいま』に寄稿したことがあったので再掲する。

僕より年少の従弟SH君の急死は驚きであった。心臓への負担をかえりみず、昼夜を分かたず仕事に励んでいたという。沖縄本島における葬儀へは参列できなかったが、僕には次の任務が与えられた。新潟開催の全国中学校陸上選手権に出場中のSH君の娘ふたりを、葬儀へ間に合うように沖縄へ帰すサポートをしてほしいとのこと。さっそく監督と連絡をとり、娘たちを乗せた上越新幹線を夜半の東京駅ホームで迎え、翌朝早朝便にて羽田から沖縄へ見送った。

双子の可愛らしい中学生であるが、父を失った悲しみの表情を浮かべるときもあり、側にいていたたまれない思いもした。しかし、気丈にも「沖縄県代表として恥ずかしくないよう400mリレー走で自己ベストを更新した」と話してくれた。悲しみの中にも、アスリートのファイトをみせた一瞬であった。  『やいま』2008年10月号

東京駅で迎えて浜松町で夕食をとり、モノレールにて羽田空港へ。ターミナルに隣接するホテルでのチェックインを見届け、ぼくは蒲田のビジネスホテルに投宿。翌朝、羽田空港で無事見送ったことを思い出す。(いまや昨夜の夕食も思い出せないが、15年前のことよくおぼえているねぇ)

これまでは、15年前のできごと。これからは、最近の「すてきなメッセージ」との出会いである。

ことし2月中旬、ぼくは那覇でいとこ達との食事会をもった。そのとき、T家のグループLINEにいれてもらった。それがきっかけで、すてきなメッセージとであったのである。

T司さん、ご無沙汰しております。
SHの双子の娘のMKです!T家のLINEでT司さんのアカウントを知り感謝の気持ちを伝えたくご連絡差し上げました🙇‍♀️

15年前の父の告別式の際は、新潟遠征中の私たちを東京→沖縄へと帰省のご支援をしていただき本当にありがとうございました。T司さんのおかげで、父との最後の時間を過ごし悔いなく天国へお見送りする事ができました。

あの頃中学生だった私たちも、今年で30歳になります。親戚の皆様の支えがあり、無事大学を卒業しMSKへ就職する事ができました。昨年は結婚を機に鹿児島へ引っ越し、同社の鹿児島支店で働きながら新しい環境に奮闘しております。
機会がありましたらご一緒にお食事できると嬉しいです!
ちなみに名字はS改めてAになりました✨ 今後ともよろしくお願いします🙇‍♀️

つづいて、双子のもうひとりの方のメッセージ。

T司さんご無沙汰しております。
同じくSHの双子の娘(妹)のMWです。MKと一緒に、T司さんのアカウントを知り、感謝の気持ちを伝えたくご連絡差し上げました🙇‍♀️いきなりののご連絡で失礼致します。

私も昨年結婚をして名字がSから、Nになりました(^^)
今年で30歳になる私たちですが、今、幸せに暮らせているのもT司さんはじめ、親戚の方々が温かく支えて見守ってくださったおかげです。
私もMKと同じく大学へ進学し、現在は那覇市にあるOSDに入社して7年目となります。
父が繋げてくださった親戚の皆さまとの繋がりと、感謝を忘れず、これからも仕事や普段の生活を通して自分を磨いていけるように励んで参ります。

今後とも末永く、宜しくお願い致します(^^)💐 T司さんが書いてくださった記事も、実家で大切に取っております。😊 (当時の『やいま』表紙と記事の写真を添付)

このメッセージをうけて、ぼくはビックリするやら嬉しくなるやら、欣喜雀躍な気分←ちょっと古いかな。

とてもステキなメッセージをありがとうございます。年甲斐もなく涙そうそうの気分になりました。おふたりのことよく覚えています。東京駅のホームで不安そうにたたずんでいる姿をみた時、なぜ早く来てあげることできなかったのか、と申し訳ない思いをしたこともありましたね。いまや立派な社会人となり、結婚生活も良き伴侶に恵まれ幸せにお暮しとのこと、ほんとうにおめでとうございます。

SHくんの早世、今更ですが残念至極です。優しく強いナイスガイそのもの。でも、素晴らしいお嬢さんたちをこの世に残してくれたので、折り合いをつけないといけませんね。小生、年金暮らしの毎日が日曜日の身。上京の際には連絡ください。よろしかったら食事でもしましょう。
AJちゃん親子、「東京行くのでビールごちそうしてね」と先日、那覇にておねだりされました(笑)お母さまにもどうぞよろしくお伝えください。

おふたりからさらに返信。

あの時のことも鮮明に覚えていてくださり、ありがとうございます😭
私たちも、はじめての新幹線で心細いなかT司さんが迎えにきてくれてとても安心したのを覚えております。お父さんの娘として恥じぬようこれからも前向きさと感謝を忘れず過ごしていこうと思います(^^)
ぜひ、MKと東京に行く時にはご連絡させて下さい。🙇‍♀️✨

母も、T司さんにとても感謝しておりますので宜しくお伝え申します😊喜ぶ顔が目に浮かびます!

ご丁寧にお返事いただきありがとうございます😭
司さんがいなかったら東京駅で迷子になって羽田空港にも辿り着けなかったと思います。。
あの時は父のことで頭がいっぱいでちゃんとお礼が出来なかったのが心残りで、こうやって感謝の気持ちを伝えられて良かったです😭✨
父に教わった優しさや心の強さを胸に頑張っていきます💪MWと東京行く際は、またご連絡させて下さい😆

15年前の一瞬の出会いから、時を経て15年後にすてきなメッセージをいただく! SNSのなせる時代に感謝します。

エッセイ,哲日記,黒島

2月1日、八重山の兄より訃報の電話をもらった。沖縄本島で八重山古典民謡研究所を主宰する、また従兄弟のTY兄さんが亡くなられたとのこと。享年77歳というがそれは数え年で、満75歳はあまりの早世で残念至極である。

彼は八重山古典民謡はもとより、黒島の歌・三線の名手であることは誰しも認めるところである。沖縄県文化功労者表彰、沖縄県指定無形文化財保持者等、輝かしい活動と実績は身内のひとりとしても誇らしく思う。

20数年前、「黒島民謡工工四」を上梓されたときには、それらと最も縁遠いぼくにまで同書を贈っていただいたことがあった。「このような立派な本は、国立国会図書館で永久保存されるべきで、ぼくには猫に小判です。でもしばらくは手元において先輩の黒島愛・民謡愛をかみしめたいです」と礼状を送ったことを思い出す。

沖縄と東京では会う機会は少なかったが、「千代先生にはいつもむっぴられたさー(つねられた)」とぼくの母が黒島の教員をしているとき、叱られた思い出をなつかしそうに話してくれた。また、父が竹富町内の島々の風景を作詞した際には、それに曲をつけて楽しい歌に仕上げてくれた。ぼく達にはとても優しい兄貴分であった。

–沖縄は 八重山は 黒島は「宝」を失った– いささか気障だが弔電を送りご冥福を祈る。合掌

エッセイ,哲日記

石垣島の友人UYさんからメールが送られてきた。添付されてあったのは、尊敬するTC先生の新聞投稿である。

その趣旨は、杖をつく高齢者になると、坂本九「上を向いて歩こう」ではなく、下を見て注意深く歩こう。転倒防止こそ寝たきりを防ぐうえで大切だ。宮沢賢治「雨にも負けず、風に負けず、雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な体を」の精神で、できるだけ健康寿命を保ちたい。

そして、なによりも高齢者は、石垣市立図書館を大いに活用して学び、今日一日を大事に生きていこう!先生よりぼくは20歳弱年少だが、ハッパをかけられた気分となり、日々を大事に有意義に過ごしていこうと、粛然たる気持ちになった。遠く八重山に向かって感謝の合掌をした次第である。

宮沢賢治にかかわるエピソード思い出した。政党機関紙の記事である。

ある年の参院選挙に立候補した神奈川選挙区千葉景子さんの選対事務所へ、近くの横浜馬車道にある寿司屋の女将さんがお寿司の差し入れをよくしてくれたそうな。その女将さん、写真で見るととてもきれいな方で、実は晩年の荒畑寒村の世話役を瀬戸内寂聴から依頼されてこころよく引き受けたとのこと。

そして、寒村宅を訪問する初日、褒めてもらおうと「共産党宣言」を持参したところ、寒村「そんなもん読むより、宮沢賢治をよんでごらん」と諭された。ウン、いい話だ。

2023年1月16日エッセイ,黒島

「お前さんの24時間漂流記、聞かせくれよ」「2,3日海上を漂っていたんだって?」

55年前のぼくの不始末な事故について、興味津々、いまに至るも問われることがある。ぼくも「労働基準法にならって8時間だ」と冗談っぽく返したりするが、その九死に一生を得た体験について、当事者としてふり返ってみたい。 

【海に転落 必死に泳ぐ】

1967年8月4日未明、ぼくは沖縄本島と石垣島をむすぶ貨客船・那覇丸から転落した。当時15歳、石垣二中3年生のぼくは全琉中学校軟式庭球大会で団体戦二連覇、チームメイトとともに八重山へ帰る途中で事故に遭ったのである。前日の3日夕方、泊港を出港した那覇丸は4日朝、石垣港着の予定で船出。夜の航行であるが、8月の海はとても穏やかだった。ぼくは船底の2等客室は蒸し暑いので、同僚のKE君と甲板で寝ていた。涼みがてら甲板には、およそ50人が寝ていた。

そして午前3時頃、宮古島沖合の東シナ海で甲板から海に転落。海中から浮上して気がついたとき、去っていく那覇丸の大きな船尾がみえた。よくスクリューに巻き込まれなかったなと言われるが、当時はただ呆然とさり行く船を見つめたままだった。闇の中で、大海原に浮かぶぼくの目に一条の光が定期的に映る。近くで漁船が夜間操業している灯りではと思った(後に池間島灯台と判明)。その光の方向をめざして、懸命にではなくゆっくりと泳いだ。

力むことなく、泳ぎ続けること数時間。夜が明け、目標としていた灯りも確認することができなくなり、少しずつ波も高くなってきた。波間に一隻の漁船が遠く離れたところで行き過ぎる。目標もない大海原で平泳ぎや立ち泳ぎをしたり、大きく息を吸い込んで仰向けに浮かんだり、無意識に行動をしていた気がする。何か足を突っつく感じ、あるいは足を伸ばせば海底に着く感じ、いろいろな感情が頭をよぎった。

疲労が積み重なってきた。何かつかまる物はないか、浮遊物はないか、そのようなことも疲労が増すにつれて感じた。深夜の転落事故であるが、夜の海は8月初旬ということもあってか寒さは感じなかった。陽があがって夏の強烈な暑さも感じない。空腹感、のどの渇きも感じない。鈍感なのか、死の恐怖、サメに襲われる身震いする怖さも感じない。漆黒の闇の中でも、幽霊の幻想もなかった。冷静なのか、定かではない。

【救助の瞬間 気つけのビンタ】

再び、漁船が一隻通り過ぎた。先ほどより近くに見える。はいていた半ズボンを脱いで振った。漁船に合図を送った。通り過ぎたと思った漁船は、Uターンしてきた。のちに分かったのは池間島の雄山丸である。ぼくを発見した雄山丸は、慎重に近づいてきた。そして、ぼくの周りを2周旋回した。まさか、大海原で人間がいるなんて思いもしなかったであろう。午前11時、ぼくは船から出された竹竿をしっかり握り引きあげられた。すると突然、往復ビンタを張られた。人間、安心したときが一番危ない。海の男の気つけのひとつである。

ぼくは、黒砂糖を溶いた白湯を飲み、おじさん達に借りたシャツとデカパンを着て、うるさいエンジン音をものともせず船室で爆睡した。この間、雄山丸は「少年救助」の打電をし、ぼくが大丈夫そうなので漁場に向かい、希にみる大漁となった。ぼくを乗せ、大漁旗をかかげた雄山丸は、池間島に着いた。そして、警察の警備艇で宮古島へ移送され、I嶺医師(のちの初代宮古島市長)の診察と手当てを受けた。翌日、宮古空港からYS11で石垣島へ帰った。初めて飛行機に乗るというおまけ付きで、8時間におよぶぼくの九死に一生を得る体験は終わった。

【地元では大騒動 救助に安堵】

一方地元では、下船時にぼくが行方不明であることがわかり大騒動となった。警察は、付近航行中の全船舶に緊急無線による捜索手配、警備艇の出動。竹富町役場勤務の父も仕事そっちのけで奔走し、救助に一縷の望みを託す。黒島から祖父と兄がサバニをチャーターして石垣に向かった。叔母のひとりは、ぼくが転落する夢を見たという。那覇からは、母方の祖父が急を聞いてかけつけた。テニス仲間はじめ、多くの皆さんに心配と迷惑をかけた。

僕にとって不始末な事故であるが、新聞でも大きく取り上げられ、へたくそな自筆署名の手記まで掲載され、沖縄県内各地から手紙やプレゼントが寄せられる反響に驚いた。夏休み中の事故からあけて2学期の始業式をむかえる。中学校に登校すると、女生徒から「奇跡の人」「エイトマン」「好きー」などど黄色い声をあびる人生で唯一の経験もした。

【命の恩人へ感謝】

後年、ぼくの友人が宮古島へ社員旅行で行ったところ、バスガイドが池間島の灯台を指さし「この灯台の明かりを目ざし、少年は深夜の海を泳ぎ続けたのです」と紹介したとのこと。東京で社会人生活をおくっていたある日、池間島文化講演会で話をする機会をいただいた。ぼくを奇跡的にも大海原で見つけ、救助してくれた雄山丸が所属する池間島。ぼくの拙い話に島人は熱心に耳を傾けてくださり、笑いあり涙あり指笛まで飛び出すまでに至ったとき、命の恩人の皆さまへ感謝の念が届いたことに、ようやく肩の荷がおりた思いがした。

【黒島とすべての皆さまに感謝】

さほど体格もでかくない私が、8時間も踏ん張ることができたのはなぜか。それは黒島の海で、休暇のたびごとに泳いだことに尽きる。家畜のヤギにあたえる草刈のあと、伊古の桟橋から海に飛び込んで汗をながし、夕陽を眺めることが日常であった。信心深い祖母は「竜宮の神さまが助けてくれた」とぼくに言い聞かせた。作家の澤地久枝さんは「黒島の海は、人間の目がみた最も美しい海と言われるカリブ海よりもはるかに澄んで絶妙の色を呈している。神の領域に分け入ったような海である」と著書に記している。その海に助けられたかもしれない。

ぼくは、古希を超える年まで生きてこられたことを、黒島の海と、ご心配をいただいたすべての方へ感謝しつつ日々をすごしている。それでも事故から55年、トラウマが潜在的にあるのか、自分がはたして現世にいるのか、死後の世界にいるのではないか、と妄想にさいなまれることもなきにしもあらずだ。しかし、次の言葉に出会ってふっきれた。「語りえぬものについては沈黙しなければならない」(ヴィトゲンシュタイン)。まさに死後の世界こそ「語りえぬもの」と思うからである。

エッセイ

本日のニューヨーク市場は、1200弗超えの大幅ダウンした。かつて、組合機関紙へ次のエッセイを掲載したことがあった。

マネープランと言うからには儲かる話、と思われたら困る。結論から申すと「堅実が一番」と伝えたいだけだ。これまで、2度ばかり「株」らしきものに手を出したことがあった。1度は、営業担当に言われるままに売買を重ね、気がついたら元金が激減していた。2度目は投信購入後、急激に値が下がって放置していたがその後V字回復となり、急いで売ったところ元金に遠く及ばず損をしたというお粗末な話。

財テクについて、エコノミストの野口悠紀雄は「儲かる話はすでにプロにもっていかれている。素人が手を出してはダメ」と喝破する。かつて、ベストセラーとなった『超整理法』の著者らしく明快だ。

作家の橘玲は、宝くじは「愚か者に課せられた税金」と揶揄する。「宝くじ1等の当選確率は1,000万分の1で、毎回3万円分、0歳から100年間購入したとしても、99.9%の購入者は生涯当選することはない」と具体的に指摘する。

しからば、どうするのか。K書記長は「労金財形をしているが、意外と貯まっていた」と会議の場で紹介する。老後が心配のT委員長は「節約に努める他ない」と、弱気の日々をすごす。

ビギンの歌に「働くからこそ休まれる」との歌詞がある。堅実なマネープランは、定年後も何らかの仕事で一定の収入を確保し、余暇を楽しく過ごせれば、と思うのである。(2016年9月27日)

エッセイ,断酒

ことし5月の古希をむかえて断酒を決意し、8月18日、連続断酒・禁酒100日を達成しました!

断酒のメリットは、手指の荒れ、肌の吹き出物が消失したこと。右手のひらは荒れて、スーパーや図書館入口のアルコール消毒をやったふりをして避けていたほどだ。クリニックの皮膚科通いは常でしたが、それがなくなったのは嬉しいですね。他は,フケがほとんど出なくなり、睡眠の質が良くなったようです。ダイエット、腹囲減もこれから期待できるでしょう。

家計も助かります。ぼくはここ数年、家計アプリを利用して金銭出納を管理しています。断酒前3カ月の酒代は233,000円。これは居酒屋でのひとり飲みも含むが、友人との付き合い酒は含みません。それにしても、飲み過ぎは否めません。古希の誕生日以降の断酒を決めていたので、意地汚く駆け込み飲酒を派手にやらかしたことにあります。まぁそれを割り引いたとしても、家計のメリットは確かにあります。

断酒デメリットは、いまのところ感じていません。が、他人との会話が極端になくなりました。居酒屋の親父、常連客との会話は当然なく、スーパーでの買い物時に、店員さんから「駐車券はありますか?」「ありません」とのやり取りくらいか。もしかして「断酒うつ?」は、注意すべきかなぁ。

エッセイ

かつて組合機関紙へ次の拙文を寄稿したことがある。

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医師・近藤誠にハマっている。近藤は、がんにかかったらほっとけ、下手に抗がん剤をうつと副作用で苦しむだけだ、健康診断は無駄、インフルエンザ予防接種も意味がない等々、と著書で訴える。これらは病院と製薬会社を儲けさせるだけだ、万一、自分が倒れたらいっさいの医療を拒否する、ときっぱり▼ぼくも近藤に感化されてこの数年、人間ドックを受けてこなかった。それ以前は、受診結果に基づき、前立腺がん、大腸がん等の再検査を勧められるままに受けた。が、たっぷりとレントゲン、CT等の放射線を浴びただけで、検査結果は異常無しであった▼僕の悩みは「痛風持ち」であること。組合活動でストレスが溜まると、酒量が増え激痛をともなう発作がおきる。今年になって左の足の親指関節につづき、右の足へと発作に見舞われた。共産党から自民党へクラ替えしたようなものだ。近藤理論?により、痛風発作の原因である高尿酸値を抑えるクスリを飲んでいないので致し方ない▼「酒の適量は百薬の長」とする近藤理論を頼りに、病院にかからず、クスリも飲まず、そのことが結果として財政困難な駐健保支援となるのではと、勝手に思っている。

                                      (2015年9月22日記)

近藤誠医師のご冥福を祈ります。享年73歳。合掌