エッセイ,黒島

黒島ふるさと会のK勇さんが亡くなられて1年がたつ。懇親会の席での、K勇さんの饒舌なおしゃべりを懐かしく思い出すことしばしばである。

以下は、数年前、郷友会報にK勇さんのことを記した小文である。

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 だれもが「すごい!」と感嘆の声をあげるK勇さんのことを語ってみよう。

 K勇さんは1964年、東京オリンピックの年に上京。以来57年間、黒島方言でいうズーフキル(死にもの狂い)ほど働いてこられた。若いときは、深夜残業の連続でアパートに帰る途中、ブガリナオシ(お疲れさん会)の酒酔いもあって畑で眠りこけることもあった。あの頃の東京蒲田には畑も散在していたのである。

 そして、ついに「医・食・住」をテーマに、念願の起業を果たす。いまや札幌、京都、大阪、九州各大学からの医療機器用の製造、発注に応える一流の会社に成長。画期的なキッチンシステムの開発で「食」に貢献。快適なマンション経営も順調で「住」に尽力。IPS細胞発見のための実験機器製造では、山中教授ノーベル賞受賞の縁の下の力持ち、一助となったことはまちがいない。

 広大な工場敷地ではRKK(琉球海運)の巨大コンテナに、那覇市のかりゆし水族館発注の製品が続々積み込まれ、郷土沖縄の仕事もこなす。

 企業経営が盤石であると当然利益がうまれる。K勇さん、決してユクフカー(強欲)ではない。惜しげもなく母校・黒島小中学校へ寄付なさる。図書室の宮賢文庫はその一部であり、こども達が自宅でも読書できるようにと、全員へ希望する図書をプレゼント。いわば各家庭に宮賢文庫があるようなものだ。

 恩師の恩も忘れない。高齢となったG先生を沖縄から招き、大相撲を砂かぶりで観戦していただき、夜は自宅で黒島学校当時のヤマングー(やんちゃ)話を肴に恩師と一献をかたむけることも再三である。

わが郷友会も周年行事のたびに多額のご寄付をいただく。否、毎年の運営費もまかなっていただく。まったく頭のさがる思いである。これもひとえに、K勇さんの奥さま、専務の息子さん、お嬢さんの温かいご理解の賜である。(哲)

エッセイ,哲日記,黒島

郷里の中学校同期のK村M子さんから年賀状とどく。ハン消しに挑戦の、見事な龍の版画が素晴らしい。ところが、ぼくが彼女に送った年賀状は宛先不明で戻ってきた。新宿百人町〇〇〇、所番地同一にもかかわらずだ。さっそくO梅郵便局の窓口へ、2通の年賀状を持ち込み「救済措置はありませんか」と照会。窓口の女性職員は上司と相談のうえ、新宿局へ年賀状を封筒に入れて送ります、と回答。ちょっといい気分なり。

「先達てS志会(高校同窓会)で見えなかったのでガッカリしました。三木さん(女子)が生り年のこと話してました。もうマリ年祝か・・・早いね、私は傘寿よ、気分は青春!」横浜のU田M子先生。

「3月、福井・敦賀まで新幹線が延びるので遊びにきてください」親せきのK野M代さん。

「T司おじさん、今年はお会いしたいですね」姪っ子のOAちゃん、都心で医師と結婚して暮らすも、コロナ以後、会えてませんね。

「哲日記楽しく読んでます。STは脱腸で苦しんます。手術するかも」黒島から、従兄の嫁SFさん。

「S志会で貴殿にあえず残念。郷友会を壊した女性はいたよ」と怖い添え書きはBTさん。

「無」差出人の住所氏名無し、極めつけの添え書き「無」

エッセイ,読書

読書:沢木耕太郎『旅のつばくろ』新潮文庫2023年11月発行) 沢木は同書のなかで、登山家・山野井泰史との交流をとりあげている。東京の奥多摩湖畔でくらす山野井宅を、世田谷の自宅から訪ねること数十回、小さな旅と位置付け楽しくつづる。ぼくも、むかし組合機関紙に山野井泰史氏にかかわる事例を引いて、小文を書いたことがあった。

タイトル「命拾い」======

世界的な登山家である山野井泰史が、東京奥多摩の山中でトレーニング中に、クマに襲われ重傷を負ったのは2008年の秋のこと。退院後、現場で記者に語ったことは、「クマに噛まれ、意識が途切れるなか、その崖から落ちたら生還できなかった」との怖い話だ。ぼくもここ数年、素人ながら山登りに親しんできた。山野井さんがクマに襲われた倉戸山(標高1,169m)にも登ったことがある。

数年前には、ぼくも遭難しかけたことがあった。それは、あまり人の立ち寄らない奥多摩の日原の山に単独で登ったときだ。登山開始から約2時間は快調に登ったが、途中、標識を見逃し完全に道に迷ってしまった。その際「下りは禁物、上がって道を探す」のが常識だが、あせって下ってしまった。

道なき道を下っていくと、谷底へまっ逆さまの崖に阻まれた。迂回して、さらに下りをめざすが、切り立った崖の途中の狭い所で立往生してしまった。ついに、恥をしのんで携帯電話で救援を頼むも電波が通じない(生還した今となってはつながらず良かったのだが)。

そして、何とか自力で這い上がり、道なき道を登りに登って、もと来た道をようやく探りあて下山できたのであった。

誰かが上空からぼくを見たら滑稽に思うだろうが、ぼく自身は決してオーバーでなく「命拾い」の思いがした。中学3年のとき、海で命拾いの事故に遭遇した僕だが、山で2度目の命拾いをするとは、汗顔の至りだ。

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エッセイ,テレビ,哲日記,大谷翔平,映画鑑賞,食事

朝6時、大谷翔平選手は5時試合開始、急いでテレビをチェックする、きょうもベンチスタート。

朝食:ブロッコリー、トマト、アボカド、ピーマン、ゆで卵、牛乳+豆乳、バナナ、コーヒー

映画「男はつらいよ 寅次郎子守唄」第14作1974年12月(BSテレ東録画)マドンナ:十朱幸代、ゲスト上條恒彦他。男はつらいよ48作中、すきな映画のひとつ。観るたびに感動の涙必至。公開時、映画館で観て連れに涙を隠すのにあわてた思い出あり。

そのころ、OY文庫に勤務の友人が、個人的に「榕樹」というタイトルの文集を出すので、ぼくにも原稿依頼があった。そこで、この映画の感想を「恋愛雑感」と題してつづったところ、掲載されてしまった。---今年の正月も恒例の「男はつらいよ」が上映された。これで14作目である。いささかマンネリ気味と世評がうるさい。しかし、楽しくすばらしい映画である。特に、上條が十朱に思いを告げるシーンは、山田洋次ならではの業であろう。恥ずかしながらそのシーンでは、涙が出て感極まりないの境地であった。上條がいつもフラれて、醜男で、おまけに貧乏という役柄に、自分を見る思いがしたかもしれないーーー

ここまで転記するだけでも冷や汗もの。以降、恋愛にはふたつのパターンがあって労働者階級と資本家階級の恋愛に区別できるとか、パリの社交界のドレスを着た連中より、八重山香水(畑に肥料としてまく糞尿のにおい)をつけた、健康美人とひと椀のそばをわけあう恋人たちに幸あれと願うとか、よくも恥も外聞もなく書いたもんだね。汗顔の至りだ。

昼食:ピーマン、チキンサラダ、納豆、カニカマ、豆乳、みそ汁(みそ+とろろ昆布+湯)

午後出勤。 帰路、ひと駅手前で降りてウォーキング。ちょっと汗ばみ不快なのでA居酒屋でかるく一杯。生ビール、酎ハイ2杯、お通し(タコの酢の物)、枝豆、シャケのハラミ焼き。

帰宅後、水風呂にどぼん。テレビ「クローズアップ現代:ジャニーズ性加害問題」「鶴瓶の家族に乾杯」 お供は赤ワイン、ナッツ、ゆで卵(レンジでチーンしたもの、わずか50秒)

エッセイ,哲日記,食事,黒島

亀戸駅からタクシーで斎場へ向かう。きょうは親せき宅の告別式。タクシー初乗り500円、石垣島の料金と同じとはびっくり。いずこも運転手不足らしい。「うちの会社は、運転手ひとり紹介すると30万円もらえる」と運転手さん。料金1,200円。

見送られる方についてT家グループLINE(21名)へ投稿「広島で生まれ、幼くしてT家祖父母に育てられたヒーローが、長じてT家の繁栄に尽力・恩返しなされ、昨日東京で人生の幕を下ろされました。皆さまに心のなかで、ご冥福を祈っていただきたく思います 合掌」 すると、「優しい笑顔、やさしい叔父さんとの印象」「東京で苦境のとき、S川宅へおしかけいつも飲食ご馳走になった」と、沖縄本島居住の連中からコメントが寄せられた。

告別式を終え、町屋火葬場へ向かう。前車は喪主・遺族の皆さん、後車はぼくたち参列者数名。なかのひとりが自分の体験談を披露「喪主を務め霊柩車の助手席でのこと、その運転手がおしゃべり人で、火葬前に遺族どうし財産分与で喧嘩をはじめるものもいれば、奥さまがーはぁ~疲れた、早く終わってほしい、といろんな家族がいますよ」と。するとぼくが、前車を指さし、「向こうは大丈夫かなぁ」と不謹慎まる出しのジョーク。悲しみのなかにも、笑いもあった葬儀であった。

終了後、ひとり電車で帰路へ。でもせっかく都心に来たので、年内に店仕舞い予定の溜池の名店「うさぎ家」へ行って献杯することにした。夕方まで時間があったので上野科学博物館へ。ここは65歳以上無料なのでつい。先日の運営費を補うクラウドファンディングに協力しなかった負い目を感じつつ、どうもすいません。

さて、うさぎ家さん。秋田美人姉妹と黒島病に罹った大将に迎えてもらい、開口一番、「いま、Tちゃん(ぼく)のこと話していたのよ」と、噂をすればなんとやらだ。生ビールにお通し、冷酒に刺身盛り合わせ、泡盛に八重山麺をつかった焼きそば、それにシーブン(おまけ)の小鉢多数。食通池波正太郎もうなるであろう美味である。

18日敬老の日、近くのホテルでの祝賀会のあと、ふるさと会の役員会を開く予定で適当な場所ない?と、大将に相談すると「うち使って構わないよ」と仰る、祝日休業日なのに申し訳ないと思いつつ、「会長、幹事長と相談します」と仮予約をお願いした次第。

東京駅のコインロッカー(700円高っ)であずけた香典返しを取り出し、特急にて立川経由して帰宅した次第なり。

エッセイ,テレビ,哲日記,映画鑑賞,落語,読書,食事

◆8月11日(金・山の日)晴

午前8時、甲子園高校野球 沖縄尚学高校、三重県代表に勝利、東恩納投手完封勝利、沖縄予選時から無失点続くとのこと、猛暑酷暑の甲子園では一人の投手頼みではもたないかもね。次戦は長崎代表と。

図書館へ散歩がてら、新聞、週刊誌等読む。 夕方、テレビ観戦:なでしこジャパン・ワールドカップ、対スゥーデン戦、2-1で惜敗。

テレビ:森山良子・歌手55周年スペシャルコンサート(NHKbs) ざわわざわわの名曲「さとうきび畑」のエピソードがよかった。よくコンサートにきてくれた母陽子が良子へ聞きとがめたひと言。「愛だ恋だばかり歌ってちゃんちゃんらおかしい。戦争で亡くなっている人もいるのよ。あなたにはいい歌があるじゃない」 それを受けて、沖縄戦で父を亡くした悲しみをこめた「さとうきび畑」(寺島尚彦・作詞作曲)を再び歌い続けるようになったとのこと。

10数年前、F市民会館でガールフレンドと森山良子コンサートを観たことを思い出した。その頃、夏川りみの「涙そうそう」森山良子作詞・BEGIN作曲)が大ヒットしていた。 良子さん「BEGINとも話しているんだけど、私たち今までなにして来たんでしょうね」と、自分たちが歌いだしたときはヒットしなかったことを、愚痴っておかしかった。

8月12日(土)晴

朝食:酢キャベツ、人参、サラダチキン、アボガド、トマト、牛乳を一皿に盛ってチーン。ゆで卵、バナナ、インスタントコーヒー。その後、痛風抑制クスリ1錠。

資源ごみ供出日。雑紙、雑誌(文芸春秋)を出すべく準備したが、つい忘れて回収車にまにあわず。 昼食後、ベッドで週刊文春を読みつつ昼寝。

図書館へ新聞等読む。3階の書架コーナーで渉猟、佐高信『反戦川柳人 鶴彬の獄死』集英社文庫)をとりだし90分間読書。クーラーが効いて快適。同本借りる。

夕方、公園にてウォーキング40分。お供はウォークマンで落語「寝床」さん喬)大旦那が自慢の義太夫を披露しようと近所出入りのものを招くも、皆さん嫌がって断る、という滑稽噺。

夕食、赤ワイン少し、並行して映画「男はつらいよ 寅次郎夢枕」第10作、1972年12月(BSテレ東録画)、マドンナ八千草薫、ゲスト田中絹代、米倉斉加年。幼馴染の千代(八千草・当時41歳)が夫とわかれ、柴又で美容院をオープン。なんと、マドンナが寅さんにプロポーズ? 身の程知っている寅さん、逃げた! 

◆8月13日(日)曇雨

朝3時、目覚めてしまったのでベッドで読書。きのう図書館で途中まで読んだ『反戦川柳人 鶴彬の獄死』の続き。新書なので、2時間ほどで完読。川柳についてブラックユーモア、滑稽等のイメージしかなかったが、鶴彬の詠む川柳に衝撃をうけた。鶴は戦前、その川柳によって特高の弾圧をうけ29歳の若さで獄中死。

「万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た」「手と足をもいだ丸太にしてかへし」反戦川柳のきわめつき。

「玉の井に模範女工のなれの果て」「修身にない孝行で淫売婦」貧乏を撃つ川柳。

午後から図書館へ。月刊「文芸春秋」9月号を90分ほど読み続けていると、寒気がしてきた。 そこでウォーキング45分。帰宅後入浴。

エッセイ,メール,哲日記,大谷翔平,黒島

今朝の西日本新聞に友人のことが写真入りで大きく報じられていた。

 沖縄・八重山諸島の歴史をはじめ、島々で受け継がれてきた伝統や文化、生活情報などを発信し続ける出版社が石垣島にある。島育ちの上江洲(うえず)儀正さん(66)が1987年に設立した「南山舎」。竹富島の方言をまとめた初の本格的な辞典を出版し、菊池寛賞を受賞したことも。「日本や沖縄とはひとくくりにできない八重山の姿を伝えたい」と、最南端の出版社としての視点にこだわり続ける。以下略「西日本新聞2023年8月10日6:00電子版」

古希のぼくと同年なので年齢が若すぎるのは愛嬌だが、人口の少ない南の島で総合月刊誌「やいま」はじめ、数多の書物を出版し続けてきた功績は偉大なこと。誇らしい! 東京の同期生LINEグループで伝えると「素敵な情報いつも有難うございます。同期生の活躍を聞くと嬉しくモチベーションがあがります。またの情報楽しみにしていま~す」と、ひとりの美魔女から反応があった。

午前、図書館へ。暑さをしのぎ新聞まで読めるなんて。 書店で週刊文春を買う、510円。ほんと久しぶりの週刊誌購入だ。文春砲で頑張っている応援の意味をこめて。

猛暑のなか午後から出勤。電車に乗り込むと、優先席にいた若いサラリーマン風の男性二人が席を立ち、ぼくに譲ろうとする。ぼくはそれを制し、空いている席に座った。が、ぼくの見た目が老人風に見られたと思うと少々ショックであった。

MLB大谷翔平二刀流で登場。対ジャイアンツ戦。みごと6回を自責点0で投げ切り10勝目をあげた。あのベーブルースも成しえなかった2年連続、二けたホームラン、二けた勝利! あっぱれ

夕方、A居酒屋で生ビールを少々。 帰宅後、退院した親せきへ病気見舞いの電話、元気な声なのでひと安心。 

TY連合会O幹事長へ9月18日の祝賀会費振込と出席者氏名を連絡。先方より受け取った旨返信。

エッセイ,黒島

8月4日は、ぼくの九死に一生を得た「記念日」 つい忘れていましたが、宮古池間島ご出身の元校長先生からのメールで思い出しました。ここに過去の投稿記事を再掲します。

沖縄ー八重山航路 転落事故の顛末

「お前さんの24時間漂流記、聞かせくれよ」「2,3日海上を漂っていたんだって?」

55年前のぼくの不始末な事故について、興味津々、いまに至るも問われることがある。ぼくも「労働基準法にならって8時間だ」と冗談っぽく返したりするが、その九死に一生を得た体験について、当事者としてふり返ってみたい。 

【海に転落 必死に泳ぐ】

1967年8月4日未明、ぼくは沖縄本島と石垣島をむすぶ貨客船・那覇丸から転落した。当時15歳、石垣二中3年生のぼくは全琉中学校軟式庭球大会で団体戦二連覇、チームメイトとともに八重山へ帰る途中で事故に遭ったのである。前日の3日夕方、泊港を出港した那覇丸は4日朝、石垣港着の予定で船出。夜の航行であるが、8月の海はとても穏やかだった。ぼくは船底の2等客室は蒸し暑いので、同僚のKE君と甲板で寝ていた。涼みがてら甲板には、およそ50人が寝ていた。

そして午前3時頃、宮古島沖合の東シナ海で甲板から海に転落。海中から浮上して気がついたとき、去っていく那覇丸の大きな船尾がみえた。よくスクリューに巻き込まれなかったなと言われるが、当時はただ呆然とさり行く船を見つめたままだった。闇の中で、大海原に浮かぶぼくの目に一条の光が定期的に映る。近くで漁船が夜間操業している灯りではと思った(後に池間島灯台と判明)。その光の方向をめざして、懸命にではなくゆっくりと泳いだ。

力むことなく、泳ぎ続けること数時間。夜が明け、目標としていた灯りも確認することができなくなり、少しずつ波も高くなってきた。波間に一隻の漁船が遠く離れたところで行き過ぎる。目標もない大海原で平泳ぎや立ち泳ぎをしたり、大きく息を吸い込んで仰向けに浮かんだり、無意識に行動をしていた気がする。何か足を突っつく感じ、あるいは足を伸ばせば海底に着く感じ、いろいろな感情が頭をよぎった。

疲労が積み重なってきた。何かつかまる物はないか、浮遊物はないか、そのようなことも疲労が増すにつれて感じた。深夜の転落事故であるが、夜の海は8月初旬ということもあってか寒さは感じなかった。陽があがって夏の強烈な暑さも感じない。空腹感、のどの渇きも感じない。鈍感なのか、死の恐怖、サメに襲われる身震いする怖さも感じない。漆黒の闇の中でも、幽霊の幻想もなかった。冷静なのか、定かではない。

【救助の瞬間 気つけのビンタ】

再び、漁船が一隻通り過ぎた。先ほどより近くに見える。はいていた半ズボンを脱いで振った。漁船に合図を送った。通り過ぎたと思った漁船は、Uターンしてきた。のちに分かったのは池間島の雄山丸である。ぼくを発見した雄山丸は、慎重に近づいてきた。そして、ぼくの周りを2周旋回した。まさか、大海原で人間がいるなんて思いもしなかったであろう。午前11時、ぼくは船から出された竹竿をしっかり握り引きあげられた。すると突然、往復ビンタを張られた。人間、安心したときが一番危ない。海の男の気つけのひとつである。

ぼくは、黒砂糖を溶いた白湯を飲み、おじさん達に借りたシャツとデカパンを着て、うるさいエンジン音をものともせず船室で爆睡した。この間、雄山丸は「少年救助」の打電をし、ぼくが大丈夫そうなので漁場に向かい、希にみる大漁となった。ぼくを乗せ、大漁旗をかかげた雄山丸は、池間島に着いた。そして、警察の警備艇で宮古島へ移送され、I嶺医師(のちの初代宮古島市長)の診察と手当てを受けた。翌日、宮古空港からYS11で石垣島へ帰った。初めて飛行機に乗るというおまけ付きで、8時間におよぶぼくの九死に一生を得る体験は終わった。

【地元では大騒動 救助に安堵】

一方地元では、下船時にぼくが行方不明であることがわかり大騒動となった。警察は、付近航行中の全船舶に緊急無線による捜索手配、警備艇の出動。竹富町役場勤務の父も仕事そっちのけで奔走し、救助に一縷の望みを託す。黒島から祖父と兄がサバニをチャーターして石垣に向かった。叔母のひとりは、ぼくが転落する夢を見たという。那覇からは、母方の祖父が急を聞いてかけつけた。テニス仲間はじめ、多くの皆さんに心配と迷惑をかけた。

僕にとって不始末な事故であるが、新聞でも大きく取り上げられ、へたくそな自筆署名の手記まで掲載され、沖縄県内各地から手紙やプレゼントが寄せられる反響に驚いた。夏休み中の事故からあけて2学期の始業式をむかえる。中学校に登校すると、女生徒から「奇跡の人」「エイトマン」「好きー」などど黄色い声をあびる人生で唯一の経験もした。

【命の恩人へ感謝】

後年、ぼくの友人が宮古島へ社員旅行で行ったところ、バスガイドが池間島の灯台を指さし「この灯台の明かりを目ざし、少年は深夜の海を泳ぎ続けたのです」と紹介したとのこと。東京で社会人生活をおくっていたある日、池間島文化講演会で話をする機会をいただいた。ぼくを奇跡的にも大海原で見つけ、救助してくれた雄山丸が所属する池間島。ぼくの拙い話に島人は熱心に耳を傾けてくださり、笑いあり涙あり指笛まで飛び出すまでに至ったとき、命の恩人の皆さまへ感謝の念が届いたことに、ようやく肩の荷がおりた思いがした。

【黒島とすべての皆さまに感謝】

さほど体格もでかくない私が、8時間も踏ん張ることができたのはなぜか。それは黒島の海で、休暇のたびごとに泳いだことに尽きる。家畜のヤギにあたえる草刈のあと、伊古の桟橋から海に飛び込んで汗をながし、夕陽を眺めることが日常であった。信心深い祖母は「竜宮の神さまが助けてくれた」とぼくに言い聞かせた。作家の澤地久枝さんは「黒島の海は、人間の目がみた最も美しい海と言われるカリブ海よりもはるかに澄んで絶妙の色を呈している。神の領域に分け入ったような海である」と著書に記している。その海に助けられたかもしれない。

ぼくは、古希を超える年まで生きてこられたことを、黒島の海と、ご心配をいただいたすべての方へ感謝しつつ日々をすごしている。それでも事故から55年、トラウマが潜在的にあるのか、自分がはたして現世にいるのか、死後の世界にいるのではないか、と妄想にさいなまれることもなきにしもあらずだ。しかし、次の言葉に出会ってふっきれた。「語りえぬものについては沈黙しなければならない」(ヴィトゲンシュタイン)。まさに死後の世界こそ「語りえぬもの」と思うからである。

2023年6月12日エッセイ,哲日記,,黒島

東京の奥座敷に暮らす身には、都心へ出かけるのも「ちいさな旅」といえなくもない。

◆6月8日(木)晴雨

国立新美術館へ。「ルーヴル美術館展 愛を描く」を鑑賞。宗教画の数々。ピカソのような抽象画でなく美しい絵は、素人のぼくにも楽しめた。入場料2,100円。こちらの建物は黒川紀章の設計、外観もすばらしい。

夕方、ホテルニューオータニで開かれた元衆議院議長「故横路孝弘さんを偲ぶ会」へ、組合中央本部の皆さんと参加させていただいた。むかし懐かしい秘書の方々のお顔も。長年のパートナー由美子夫人のお礼のあいさつが良かった。東大の同級生どうし、10代のころからの付き合いが亡くなるまで60年間、いつも優しかった、とのこと。合掌

その後、黒島病に罹った方が営む溜池の「うさぎ家」にて夕食。ことしも黒島牛まつりに出かけたそうな。祖父譲りの江戸っ子の主人が腕をふるう料理の数々、秋田美人の妻女とその姉様がお客担当、ほんとに美味しかった。池波正太郎のエッセイに出てくる名店そのものと言ってよいだろう。年内にまた行きたいな。

泊まりは、赤坂のカプセルホテル。インバウンドがふえたせいか、カプセルでも5,500円と高め。空調がうるさかったが、うさぎ家でいただいた銘酒請福のおかげで熟睡できた。

◆6月9日(金)雨曇

朝食は、ホテルで支給された赤坂見附駅まえのファミレスで、久しぶりのトーストと目玉焼き朝定食。最近の店は、新聞を置いてないようだ。 その後、地下鉄銀座線で上野へ。

東京都美術館 フランスの画家マティス(1954年没)の日本では20年ぶりの「マティス展」を観た。入場料2,200円のところ1,500円(65歳以上割引) 高名な画家であるが、ぼくなんか絵心のないものには今一つわからない。が、平日にもかかわらず多くの人々が熱心に鑑賞していた。

となりの会場では大翔会(一般、プロ問わず多くの画家が出展)の展示。無料なのでそこへ、みごとな作品をいくつか鑑賞できた。どうもぼくの好みは写実主義?、しっかり、はっきり、くっきりした絵が好みのようかも。でも、時間が経つにつれて、脳裏にうかぶのはマティスの絵画の数々。なにか良いものがあるんでしょうね。

二日にわたって美術館めぐり、フランスに暮らす畏友・与座英信画伯のことを思い出す。四半世紀前に横浜で開催された彼の個展へ、同窓会をかねて皆で出かけたことがあった。そのとき、付き合いで彼の力作を購入した。が、その絵も手元にはない。わかれた妻が売り払ったかもしれない。今では数十倍に値がついているんじゃないだろうか。絵心のなさを露呈したカネ勘定とは情けない。

上野から池袋へ出て、駅ビル西武側の三省堂書店へ。新刊を中心にながめる。東武側のレストランでおそい昼食。その後、新しくできた東京メトロ・副都心新宿線にて渋谷経由田町へ。恒例の勉強会、きょうの講師は検察出身のリベラル弁護士。目から鱗のエピソードに感銘をうけた。

およそ90分かけて電車で帰宅。さすがに疲れたので入浴して就寝。ひさしぶりの禁酒。

エッセイ,,黒島

(むかし所属する労働組合の関係でオーストラリアへ視察旅行の機会があり、以下はその旅行記)

2012年11月16日衆議院が解散となって数日後、連合東京S事務局長から電話をいただいた。用件は、「衆議院選挙のため東京を離れられなくなった。代わってオーストラリアへ行ってもらえないか」というものである。

ぼくも多摩地域の一部で選挙に取り組む立場にあるのだが、連合東京事務局長の選挙におよぼす影響がぼくのそれよりもはるかに大きいことを理解し、「業務命令であれば仕方がない(笑)」と、引き受けた次第である。

12月5日、成田空港を離陸した15名はエコノミークラス(ビジネスクラスと誤解している向きがあるので敢えて記す)にて、長いフライトののちシドニーへと到着した。ぼくにとって初の南半球への旅であり、以下、見聞したことを感じたままに述べさせていただくとしよう。

ある考古学者のコラムで「オーストラリアの歴史書は、何万年も前からアポリジが住んでいたのにその記述はたかだか数ページ、あとは200年かそこらの白人のことを記した本ばかりで・・云々」(日経夕刊2012.12.27)という趣旨の記事を読んだ。それはその通りだろうが、ぼくにとってのオーストラリアは、その200年さえもまともに知らない、見聞きするものすべてが目からウロコのものばかりといっても過言でなかった。

その1つが、オーストラリアは宗主国イギリスが囚人を送り込んでできた国である、というガイドの説明であった。「今の国民は囚人の子孫?」とつい愚問を発したところ、「その通り。ただし1972年に白豪主義が撤廃されてからは、多民族の移民が増え、また自然増(出生率)も大幅に増えているので、それらが2200万人の人口構成の大分を占めている。囚人云々は過去のこと」とのこと。

その2つが、政権と働く者との関係だ。オーストラリアでは保守連合から労働党へ政権交代して6年目となる。労働党政権のもとで制定された「フェアワーク法」によって、労働者の保護が著しく強化されたという。

ひるがえってわが国でも、民主党政権が誕生しての3年間で「労働法制に関するマニフェストはすべて実現されている」(連合会長)との評価もあるほどだが、今般の総選挙で安倍政権へと替わり、労働組合としては今後の行く末が案じられるところだ。

 視察のバスのなかで、男性ガイドがオーストラリアにおける夫婦の力関係をおもしろく披露してくれた。「こちらの女性は強い。夫が会社で残業を命じられると、奥さんが社長に電話して早く帰すように要求。その結果、定時に夫は帰宅することになるが、気の毒なことに帰宅後、掃除・洗濯・炊事まで夫がこなす。これがこの国では普通のことだ」ということらしい。労働者の権利保護に加えて、女性の権利意識も非常に高いものがあるようだ。

 また、オーストラリアは、先進国中ではめずらしく投票を棄権すると罰金=20豪ドルを科せられるという、投票義務国ということも知らなかったことのひとつだ。

 3つ目は、オーストラリアでは米を100万トン生産(わが国は500万トン)し、その米から日本酒を製造していることにも感心させられた。酒造所で試飲にあずかったが、その味といい、「豪酒」というネーミングといい、とてもウマイと思った。酒造所周辺は自然豊かなところで、その正門を起点に数百キロ?におよぶ遊歩道や、その名も「ベルバード」と呼ぶ、可愛らしい鳥のさえずりがたえまなく聴こえ、とても心地よかったのは、試飲のお酒のせいばかりではなかったはずだ。

 オーストラリア最後の晩餐は、シドニーの日本食堂「だるま」であった。お互い旅の印象を語り合いながらの楽しい夕べとなった。目を引いたのは、店の周りいっぱいに吊るされたオリオンビールの飾り提灯である。ぼくの出身地・沖縄の名産「オリオンビール」が、遠く離れたシドニーの地で何故に飾られているのか、ウェイトレスに訊ねたが、料理運びに忙しいのか、回答を聞きそびれたのが今となっては残念だ。

400万人の人口を擁する大都市・シドニー、30万人の首都・キャンベル、この両都市を視察させて頂いたが、資源豊かな国・オーストラリアが、今後いっそう飛躍的な発展を遂げるのではないだろうかと思った。(了)

追記:シドニーからバスにてキャンベルに向かった。びっくりしたのは、広大な牧場だ。バスが2時間走っても両側の牧場の柵がとぎれなかった。地平線をのぞむような広い土地で、豪州牛が大量生産されると、わが黒島の肉牛生産大丈夫か、と心配が頭をよぎったことを思い出した。