雑 文 録
沖縄ー八重山航路 転落事故の顛末
「お前さんの24時間漂流記、聞かせくれよ」「2,3日海上を漂っていたんだって?」
55年前のぼくの不始末な事故について、興味津々、いまに至るも問われることがある。ぼくも「労働基準法にならって8時間だ」と冗談っぽく返したりするが、その九死に一生を得た体験について、当事者としてふり返ってみたい。
【海に転落 必死に泳ぐ】
1967年8月4日未明、ぼくは沖縄本島と石垣島をむすぶ貨客船・那覇丸から転落した。当時15歳、石垣二中3年生のぼくは全琉中学校軟式庭球大会で団体戦二連覇、チームメイトとともに八重山へ帰る途中で事故に遭ったのである。前日の3日夕方、泊港を出港した那覇丸は4日朝、石垣港着の予定で船出。夜の航行であるが、8月の海はとても穏やかだった。ぼくは船底の2等客室は蒸し暑いので、同僚のKE君と甲板で寝ていた。涼みがてら甲板には、およそ50人が寝ていた。
そして午前3時頃、宮古島沖合の東シナ海で甲板から海に転落。海中から浮上して気がついたとき、去っていく那覇丸の大きな船尾がみえた。よくスクリューに巻き込まれなかったなと言われるが、当時はただ呆然とさり行く船を見つめたままだった。闇の中で、大海原に浮かぶぼくの目に一条の光が定期的に映る。近くで漁船が夜間操業している灯りではと思った(後に池間島灯台と判明)。その光の方向をめざして、懸命にではなくゆっくりと泳いだ。
力むことなく、泳ぎ続けること数時間。夜が明け、目標としていた灯りも確認することができなくなり、少しずつ波も高くなってきた。波間に一隻の漁船が遠く離れたところで行き過ぎる。目標もない大海原で平泳ぎや立ち泳ぎをしたり、大きく息を吸い込んで仰向けに浮かんだり、無意識に行動をしていた気がする。何か足を突っつく感じ、あるいは足を伸ばせば海底に着く感じ、いろいろな感情が頭をよぎった。
疲労が積み重なってきた。何かつかまる物はないか、浮遊物はないか、そのようなことも疲労が増すにつれて感じた。深夜の転落事故であるが、夜の海は8月初旬ということもあってか寒さは感じなかった。陽があがって夏の強烈な暑さも感じない。空腹感、のどの渇きも感じない。鈍感なのか、死の恐怖、サメに襲われる身震いする怖さも感じない。漆黒の闇の中でも、幽霊の幻想もなかった。冷静なのか、定かではない。
【救助の瞬間 気つけのビンタ】
再び、漁船が一隻通り過ぎた。先ほどより近くに見える。はいていた半ズボンを脱いで振った。漁船に合図を送った。通り過ぎたと思った漁船は、Uターンしてきた。のちに分かったのは池間島の雄山丸である。ぼくを発見した雄山丸は、慎重に近づいてきた。そして、ぼくの周りを2周旋回した。まさか、大海原で人間がいるなんて思いもしなかったであろう。午前11時、ぼくは船から出された竹竿をしっかり握り引きあげられた。すると突然、往復ビンタを張られた。人間、安心したときが一番危ない。海の男の気つけのひとつである。
ぼくは、黒砂糖を溶いた白湯を飲み、おじさん達に借りたシャツとデカパンを着て、うるさいエンジン音をものともせず船室で爆睡した。この間、雄山丸は「少年救助」の打電をし、ぼくが大丈夫そうなので漁場に向かい、希にみる大漁となった。ぼくを乗せ、大漁旗をかかげた雄山丸は、池間島に着いた。そして、警察の警備艇で宮古島へ移送され、I嶺医師(のちの初代宮古島市長)の診察と手当てを受けた。翌日、宮古空港からYS11で石垣島へ帰った。初めて飛行機に乗るというおまけ付きで、8時間におよぶぼくの九死に一生を得る体験は終わった。
【地元では大騒動 救助に安堵】
一方地元では、下船時にぼくが行方不明であることがわかり大騒動となった。警察は、付近航行中の全船舶に緊急無線による捜索手配、警備艇の出動。竹富町役場勤務の父も仕事そっちのけで奔走し、救助に一縷の望みを託す。黒島から祖父と兄がサバニをチャーターして石垣に向かった。叔母のひとりは、ぼくが転落する夢を見たという。那覇からは、母方の祖父が急を聞いてかけつけた。テニス仲間はじめ、多くの皆さんに心配と迷惑をかけた。
僕にとって不始末な事故であるが、新聞でも大きく取り上げられ、へたくそな自筆署名の手記まで掲載され、沖縄県内各地から手紙やプレゼントが寄せられる反響に驚いた。夏休み中の事故からあけて2学期の始業式をむかえる。中学校に登校すると、女生徒から「奇跡の人」「エイトマン」「好きー」などど黄色い声をあびる人生で唯一の経験もした。
【命の恩人へ感謝】
後年、ぼくの友人が宮古島へ社員旅行で行ったところ、バスガイドが池間島の灯台を指さし「この灯台の明かりを目ざし、少年は深夜の海を泳ぎ続けたのです」と紹介したとのこと。東京で社会人生活をおくっていたある日、池間島文化講演会で話をする機会をいただいた。ぼくを奇跡的にも大海原で見つけ、救助してくれた雄山丸が所属する池間島。ぼくの拙い話に島人は熱心に耳を傾けてくださり、笑いあり涙あり指笛まで飛び出すまでに至ったとき、命の恩人の皆さまへ感謝の念が届いたことに、ようやく肩の荷がおりた思いがした。
【黒島とすべての皆さまに感謝】
さほど体格もでかくない私が、8時間も踏ん張ることができたのはなぜか。それは黒島の海で、休暇のたびごとに泳いだことに尽きる。家畜のヤギにあたえる草刈のあと、伊古の桟橋から海に飛び込んで汗をながし、夕陽を眺めることが日常であった。信心深い祖母は「竜宮の神さまが助けてくれた」とぼくに言い聞かせた。作家の澤地久枝さんは「黒島の海は、人間の目がみた最も美しい海と言われるカリブ海よりもはるかに澄んで絶妙の色を呈している。神の領域に分け入ったような海である」と著書に記している。その海に助けられたかもしれない。
ぼくは、古希を超える年まで生きてこられたことを、黒島の海と、ご心配をいただいたすべての方へ感謝しつつ日々をすごしている。それでも事故から55年、トラウマが潜在的にあるのか、自分がはたして現世にいるのか、死後の世界にいるのではないか、と妄想にさいなまれることもなきにしもあらずだ。しかし、次の言葉に出会ってふっきれた。「語りえぬものについては沈黙しなければならない」(ヴィトゲンシュタイン)。まさに死後の世界こそ「語りえぬもの」と思うからである。
健康診断雑感☆☆☆☆☆
先日、久しぶりに健康診断をうけた。そこで、かつて組合機関紙へ、健康診断にかかわるエッセイを掲載したことを思い出した。
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医師・近藤誠にハマっている。近藤は、がんにかかったらほっとけ、下手に抗がん剤をうつと副作用で苦しむだけだ、健康診断は無駄、インフルエンザ予防接種も意味がない等々、と著書で訴える。これらは病院と製薬会社を儲けさせるだけだ、万一、自分が倒れたらいっさいの医療を拒否する、ときっぱり。
ぼくも近藤に感化されてこの数年、人間ドックを受けてこなかった。それ以前は、受診結果に基づき、前立腺がん、大腸がん等の再検査を勧められるままに受けた。が、たっぷりとレントゲン、CT等の放射線を浴びただけで、検査結果は異常無しであった。
僕の悩みは「痛風持ち」であること。組合活動でストレスが溜まると、酒量が増え激痛をともなう発作がおきる。今年になって左の足の親指関節につづき、右の足へと発作に見舞われた。共産党から自民党へクラ替えしたようなものだ。近藤理論?により、痛風発作の原因である高尿酸値を抑えるクスリを飲んでいないので致し方ない。
「酒の適量は百薬の長」?とする近藤理論を頼りに、病院にかからず、クスリも飲まず、そのことが結果として財政困難な健康保険組合への支援となるのではと、勝手に思っている。(2015年9月記)
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近藤先生は2022年、73歳で逝去。ぼくの現在の心境は、大筋で近藤理論を信じつつも、痛風抑制クスリを服用したり、皮膚科の塗りクスリをもらったり、ちゃっかり医療の恩恵も受け、現代医療を全否定することもない、と思っている。
ちんだら節大会☆☆☆☆☆
ちんだら節は、黒島を代表する三線歌。むかし「道切移民」によって、将来を誓い合った恋人であっても、強制的に別れさせられるという悲恋歌。野底村に追いやられた彼女を思って切々歌いあげる、黒島に残された男。野底の山に登って遠く黒島の彼氏を思いつめ、石になった伝説。
沖縄の黒島郷友会は、ちんだら節の伝承のため第1回ちんだら節を開催し、東京の郷友会へもメッセージを送るよう依頼があり、以下の小文を送った。
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36年前に出版された「りゅうきゅうねしあ」という本があります。朝日新聞の辰濃和男記者の書かれたもので、本土復帰前後の沖縄をルポしたものです。黒島滞在記もあり面白く読みましたが、ちんだら節のことも出てきます。そのなかで竹富島の古老が語るには、美しい娘が恋人と別れて、強制移住先の野底村で「思いつめて」石になってしまう、との民話が竹富島に残っているとのこと。
また、歴史家の喜舎場永珣が紹介するちんだら節の歌詞では、野底へ強制移住させられたのは男であると、読み取れること等。ぼく達の理解と異なる記述なのでビックリもするが、第1回ちんだら節大会では、これらの真相解明も併せてご盛会を祈ります。 (関東黒島郷友会幹事長)