故・K勇さんのこと
黒島ふるさと会のK勇さんが亡くなられて1年がたつ。懇親会の席での、K勇さんの饒舌なおしゃべりを懐かしく思い出すことしばしばである。
以下は、数年前、郷友会報にK勇さんのことを記した小文である。
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だれもが「すごい!」と感嘆の声をあげるK勇さんのことを語ってみよう。
K勇さんは1964年、東京オリンピックの年に上京。以来57年間、黒島方言でいうズーフキル(死にもの狂い)ほど働いてこられた。若いときは、深夜残業の連続でアパートに帰る途中、ブガリナオシ(お疲れさん会)の酒酔いもあって畑で眠りこけることもあった。あの頃の東京蒲田には畑も散在していたのである。
そして、ついに「医・食・住」をテーマに、念願の起業を果たす。いまや札幌、京都、大阪、九州各大学からの医療機器用の製造、発注に応える一流の会社に成長。画期的なキッチンシステムの開発で「食」に貢献。快適なマンション経営も順調で「住」に尽力。IPS細胞発見のための実験機器製造では、山中教授ノーベル賞受賞の縁の下の力持ち、一助となったことはまちがいない。
広大な工場敷地ではRKK(琉球海運)の巨大コンテナに、那覇市のかりゆし水族館発注の製品が続々積み込まれ、郷土沖縄の仕事もこなす。
企業経営が盤石であると当然利益がうまれる。K勇さん、決してユクフカー(強欲)ではない。惜しげもなく母校・黒島小中学校へ寄付なさる。図書室の宮賢文庫はその一部であり、こども達が自宅でも読書できるようにと、全員へ希望する図書をプレゼント。いわば各家庭に宮賢文庫があるようなものだ。
恩師の恩も忘れない。高齢となったG先生を沖縄から招き、大相撲を砂かぶりで観戦していただき、夜は自宅で黒島学校当時のヤマングー(やんちゃ)話を肴に恩師と一献をかたむけることも再三である。
わが郷友会も周年行事のたびに多額のご寄付をいただく。否、毎年の運営費もまかなっていただく。まったく頭のさがる思いである。これもひとえに、K勇さんの奥さま、専務の息子さん、お嬢さんの温かいご理解の賜である。(哲)
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