雑 文 録

2024年10月7日

命拾い

 世界的な登山家である山野井泰史が、東京奥多摩の山中でトレーニング中に、クマに襲われ重傷を負ったのは2008年の秋のこと。退院後、現場で記者に語ったことは、「クマに噛まれ、意識が途切れるなか、その崖から落ちたら生還できなかった」との怖い話だ。ぼくもここ数年、素人ながら山登りに親しんできた。山野井さんがクマに襲われた倉戸山(標高1,169m)にも登ったことがある。

数年前には、ぼくも遭難しかけたことがあった。それは、あまり人の立ち寄らない奥多摩の日原の山に単独で登ったときだ。登山開始から約2時間は快調に登ったが、途中、標識を見逃し完全に道に迷ってしまった。その際「下りは禁物、上がって道を探す」のが常識だが、あせって下ってしまった。

道なき道を下っていくと、谷底へまっ逆さまの崖に阻まれた。迂回して、さらに下りをめざすが、切り立った崖の途中の狭い所で立往生してしまった。ついに、恥をしのんで携帯電話で救援を頼むも電波が通じない(生還した今となってはつながらず良かったのだが)。

そして、何とか自力で這い上がり、道なき道を登りに登って、もと来た道をようやく探りあて下山できたのであった。

誰かが上空からぼくを見たら滑稽に思うだろうが、ぼく自身は決してオーバーでなく「命拾い」の思いがした。中学3年のとき、海で命拾いの事故に遭遇した僕だが、山で2度目の命拾いをするとは、汗顔の至りだ。

大忙しの1週間

 九月の第2週は大忙しであった。週の初めの日曜日には、東京S会へ出席した。公務の合間をぬって出席されたON市長が挨拶した。達者な四箇方言に感心した。

 九月の第2週は大忙しであった。週の初めの日曜日には、東京S会へ出席した。公務の合間をぬって出席されたON市長が挨拶した。達者な四箇方言に感心した。

 水曜日には、夏川りみコンサートにでかけた。最前席という幸運にめぐまれた。「涙そうそう」はいつ聴いてもいいもんだ。会場の東京OM市民会館は昔の万世館のような古い造りだ。「この会場懐かしさー」というやいま訛りの彼女のトークは、満員の観客に受けた。

 金曜日は、T市のライブハウスでザ・ウイッチを聴いた。ジャズ、ラテン、ボサノヴァなんでもござれのバンドだ。東京では玄人筋の間で根強い人気を誇っているらしい。これまで府中、狛江等での演奏を聴きに行った。東京ど真ん中の虎ノ門では、真冬の路上ライブのこともあった。

ドラム担当のバディー・ウイッチが、このバンドのリーダーだ。ぼくの石垣島当時の小中学校の同級生である。栴檀は双葉より芳し・・・彼が小学生のとき、すでに自宅一番座をドラムセットで占拠して猛練習に明け暮れていたことを憶えている。

あす九月最後の日曜日は、関東黒島郷友会「黒島まつり」だ。どうも本来の仕事でなく、「遊び」で忙しいので困ったものだ。

*日本最南端の出版社・南山舎発行の月刊『やいま』2008年11月号より。 同誌は八重山情報満載.

ふたりの訃報

 今夏、身近な2名が亡くなった。

ひとりは親戚の叔父で享年71歳。晩年は目を不自由にされたにもかかわらず、好奇心旺盛で、八重山商工高の甲子園応援に同行したときは、若者顔負けの応援ぶりであった。黒島関係の本を送ると、ボランティアに頼んで読んでもらうことになるが、その発音に注文をつけるほどの読書ぶりであった。

関東黒島郷友会発足の立役者のひとりであり、「会長の郷友会発展に尽くされた功績は誠に大きく、心から敬意と感謝を表する」と、郷友会は弔電をおくり、元会長のご冥福を祈りその死を惜しんだ。

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僕より年少の従弟H君の急死は驚きであった。心臓への負担をかえりみず、昼夜を分かたず仕事に励んでいたという。沖縄本島における葬儀へは参列できなかったが、僕には次の任務が与えられた。

新潟開催の全国中学校陸上選手権に出場中のH君の娘ふたりを、葬儀へ間に合うように沖縄へ帰すサポートをしてほしいとのこと。さっそく監督と連絡をとり、娘たちを乗せた上越新幹線を夜半の東京駅ホームで迎え、翌朝早朝便にて羽田から沖縄へ見送った。

双子の可愛らしい中学生であるが、父を失った悲しみの表情を浮かべるときもあり、側にいていたたまれない思いもした。

しかし、気丈にも「沖縄県代表として恥ずかしくないよう400mリレー走で自己ベストを更新した」と話してくれた。

悲しみの中にも、アスリートのファイトをみせた一瞬であった。

閑話二題

 7月20日、さいたま市で東京八重山郷友連合会主催の親善ソフトボール大会が開催された。猛暑のなか各郷友会から12チームが参加した。僕も、黒島チームの一員として、大いに汗を流した。

 応援にかけつけた長老のひとりは「お前は文武両道だな」とおっしゃった。「武」は、まぐれあたり連発の僕のバッティングをさしてのことだと察したが、「文」は思い当たらない。訊くと、本誌掲載の僕の文章を読んでのことという。お世辞はともかく、『やいま』がメジャーな媒体であることを忘れてへたくそな文を書き散らかしていると、とんでもないことになると思わず冷汗をかいたものだ。

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 4月に続き8月も帰省した。石垣在の父親の見舞いが主であるが、お盆の季節でもあり、黒島にわたり先祖の墓掃除をした。

 90、100歳まで長寿をまっとうされた祖父母のことや、今から40数年前、若くして亡くなった母のことを思い、亀甲墓の周りを掃き清めることは、わるくない気分である。

その後、実家で仏壇の清掃に取り掛かった。ぬれた雑巾で香炉の周りの灰をふき取り、位牌をきれいに拭いた。位牌の表面は故人の戒名が並び、裏面は命日がそれぞれ記されてあった。

ふと目についたのは、忘れていた母の命日・・・・昭和36年3月22日とあった。僕の娘のバースデーとくしくも同じであった。 

月刊『やいま』2008年9月号より

 

講演「賄女」

6月15日、東京神田で開かれたTY文化研究会の例会に出席させていただいた。

門外漢の僕が、400回近くの例会を重ねる伝統ある研究会に行く気になったのは、T山Z堂が黒島の「昔話」を語るという情報に接したからだ。彼は、僕の従兄叔父にあたり、在京の黒島出身者も多く出席されていた。

 講演は、昔話というホンワカしたものでなく、琉球王国時代にあった賄女(まかないおんな)制度を撃つ、といった内容の激しいものとなった。賄女制度では、役人が各離島などに配属されたとき、役人の身の回りの世話をする人で、島一番の美人を有無をいわせずあてがったという。そして、任期の3年間、食事の世話など家事全般に加え、夜伽まで強いられるものであった。黒島では、「ヨーヨー アバレーミドーヌファー ナシムヌ アラヌンドー(けっして美人の子を生むものではないよ)」との言い伝えがあったが、賄女の過酷さを知れば合点がいくのである。

 講師は、現地妻たる賄女たちの深い悲しみと怒りを、自らの怒りとして語った。返す刀で、賄女に選ばれることは憧れであり名誉であった、とする八重山歴史研究の大家の説をも切り捨てた。曰く「人間の尊厳を踏みにじり、女性を蔑視し、ひいては離島差別にねざすもの」と糺した。

 3時間におよぶ長丁場の講演であったが、合間に登場するMAさん率いるグループの唄・三線に癒され、八重山の歴史と芸能を堪能した一日となった。感謝。

父の思い出

東京から帰省し、石垣島の福祉法人「ばすきなよお」へ入所している老親を見舞った。ばすきなよおの玄関を入ると、「竹富町島々賛歌」の額が掲げられている。

  • 島ぬ家並み美しゃ竹富島
  • 島の生り姿美しゃ小浜島
  • 島ぬ道並み美しゃ黒島
  • 島ぬ砂浜美しゃ新城島
  • 島ぬ野原美しゃ波照間島
  • 島ぬ山並み美しゃ西表島
  • 島ぬ中森美しゃ鳩間島

     ばすきなよおにて 

・・・・・とある。私の父の作である。

 父は、おかげ様で昨年米寿を祝い、卆寿も元気で迎えてくれると思う。記憶力も確かで、父の部屋で昔話を聞くこともなかなか面白い。先の大戦、中国大陸で衛生兵として終戦を迎えた父は、やっとの思いで福岡の港に引き上げてきたそうだ。そして那覇から疎開していた、妻となる千代子と隣の大分県で出会った。

終戦後しばらくは、米軍が占領する沖縄本島へ疎開者が帰島することは許可されず、父はこれ幸いと母を一気に八重山黒島まで連れて、結婚にこぎつけたという。

父母のなれそめを五十代にして初めて聞くが、「ばすきなよお」を肝に銘じ、父の話を聞きに帰省を重ねたいと思う。 

 *父は2011年1月、九二歳で永眠

Posted by ttetsu